2016年12月25日日曜日

「チェルノブイリ法日本版」の制定の基本アイデアと制定までのロードマップについて(2016.3.18)

1、チェルノブイリ法日本版制定の基本アイデア

レジメはー>被ばくから命・健康と生活を守るための4つのアクションについて(私案第4稿)


(1)、法律の中身
死文化した「子ども・被災者支援法」と対比することでイメージがより鮮明になる。
①.被害者に対し、(人道的)支援ではなく、人災を起こした加害者として贖罪、賠償責任を果たすこと、被害者の立場からみると、人権(権利)保障であって、支援を受けるのではないこと。

②、具体的保障であって、抽象的、一般的な理念法にとどまる子ども・被災者支援法とは明確に異なる。

(2)、法律制定までのプロセス
①.政府が制定を嫌がったとしても、最終的に制定せざるを得ない状況を作り出すやり方を採用する。
 →過去の実例(情報公開法)をモデルにしたやり方を採用。
 →つまり、日本各地の条例制定の実績を積み上げる中で、本丸の法律制定に攻め上る。

②.漠然とした道のり(プロセス)ではなく、ゴールまでの具体的なロードマップを明確に描くことができること。
  過去の実例(情報公開法)の具体的なやり方から学ぶこと。

③.情報公開法制定のやり方をさらに進化させること。
 →市民の参加型民主主義をより進めること。一握りの専門家の手で作るのではなく、より多くの市民参加による草の根の条例制定をめざすこと。


2、チェルノブイリ法日本版制定までのロードマップ

モデルにする情報公開法制定のやり方は、2段階の制定プロセス(条例制定→法律制定)を採用。

情報公開法制定のロードマップは以下の通り。
→出典(情報公開法を求める市民運動の活動

①.「情報公開法を求める市民運動」(母体となる準備会)の結成:その特徴はピラミッド型の号令一下、上意下達の会ではなく、フラットなネットワーク型の会。
②.『情報公開権利宣言』の起草:法案の原理原則を明らかにした文書を作成。
③.②の宣言を具体化した条例を日本各地で制定するための条例制定運動(条例案モデルの作成など)と条例の制定
④.③の成果を元に、情報公開法の制定へ

以上をモデルにして、どういうアクションを行うか--ひとえに、私たちひとりひとりの創意工夫と意欲にかかっている。


3、チェルノブイリ法日本版の意義

その直接的な意義は、福島原発事故で被ばくを強いられ、苦しんでいる被害者の人たちの命を健康と生活を守るためです。

他方で、この法は、避難の権利の主体を、福島原発事故の被害者の人たちに限定するものではないので、その結果、実際上は、今、日本各地で原発再稼動の動きの中で、今後、原発事故発生の危険性を実感しているすべての住民の人たちにとっても、避難の権利の保障を意味します。

この意味で、この法律は原発反対、賛成という政策決定の問題とは無関係に、原発事故が発生した場合の住民の命、健康、生活を守るための人権法・普遍法です。
ですから、仮に原発推進派の立場に立つ人であっても、「放射能から人々の命、健康、生活が守られれるべきだ」と考える人ならすべて、この法律に賛同できる筈です。

この観点は、チェルノブイリ法日本版の条例制定を推進していく上で、とても大事なものです。

1年2年先ではなく、5年、10年、50年先を見据えて、行動(チェルノブイリ法日本版の制定)を続ける(2016.5.25)

先日、たまたま、数年前に或る人からいただいたDVDを観て、感銘を受けました。

除染された故郷へ~ ビキニ核実験・半世紀後の現実」 (2012年9月放送)

といっても、これは福島のことではありません。今から60年以上前、水爆実験が行なわれた南島のビキニ環礁のロンゲラップ島のお話です。

水爆実験によって被ばくした島民の人たちの「避難」→3年後の安全宣言→「帰還」→9年目から健康被害の多発→31年後の「集団離島」→「帰還の勧め」(=援助の打ち切り)の中で苦悩する島民の姿を描いたものですが、
低線量被ばくによる健康被害の問題という点で、福島原発事故と変わりません。むしろ、ロンゲラップ島の60年は福島の未来、放射能汚染地の未来を示していると確信しました。

1年、2年で一喜一憂することではないと思いました。
チェルノブイリ法日本版制定も5年、10年、50年先を見据えて取り組む永遠のテーマだと思いました。

以下、その映像と文字起し文です。

除染された故郷へ ~ ビキニ核実験・半世紀後の現実(2012年9月放送)
http://dai.ly/xu5f4w (49分)

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マーシャル諸島のロンゲラップ島。
避難民のことをロンゲラップピープルと呼ぶ。

ロンゲラップ島は、1954年3月1日の水爆実験により被ばく。
被ばく線量限度の2000倍。
灰が降り注ぎ、それに触れた人たちは焼けただれたようになった。

水爆実験の2日後米軍によって別の島に移された。
200km離れた基地で血液や尿を調べた。
医師を派遣したのは核兵器を開発管理するアメリカ原子力委員会。
放射線の人体に与える影響を知ることが最優先課題。
住民一人一人に識別番号を付ける。
生涯にわたり追跡調査をするため。
被ばくした人たちへの支持は、一日3回海で身体を洗うことだけ。
「そこにいた人たちは不幸なことにみんな病気になりました」
3か月後、また別の島へ移される。

3年後の1957年にアメリカ原子力委員会は安全宣言を出した。
島民250人が島に戻る。
その後、これまで無かった病気が多発。
直接被ばくしていない人までが病気に。
「母は甲状腺の病気になりました。そして、頭蓋骨のない子供を産みました。」
島に残る放射能の影響ではないかと島民は心配するが、アメリカから派遣された医師は否定。
島民にはニューヨークで浴びる自然放射線よりロンゲラップの方が低いと説明。

しかし、島民帰還の前の年に行われた会議では
「避難している住民が島に帰れば研究に役立つ」
と繰り返し発言。
「放射線の影響を調べる上で理想的な状況だ。」
「長期間に渡る低線量被曝の影響を調べられる。」
「それによって放射線に関する知識が増やせる。」

アメリカは島民にカードを持たせる。
直接被ばくしていない人はピンクのカード。
死の灰を直接浴びた人たちは緑のカード。
異なる条件の人々を同じ状況で比較調査できるのは、
アメリカにとって理想的な研究環境だった。

アメリカは派遣する医師に対しては、島の水や食料を取らないように厳しく指導。
島民にはほとんど規制せず。

定期健診で島民の体内のストロンチウムは20倍、セシウムは60倍にも跳ね上がる。
この事実は住民には伝えられなかった。

核実験から9年後、3人の島民に甲状腺の異常がみつかる。
年を追うごとにがんや白血病も続出するようになる。
核実験から18年後の1979年、19才の若者が白血病で亡くなり、島民は大きな衝撃を受ける。
アメリカ原子力委員会の言うことを信じる人はいなくなり、住民の代表がアメリカ人医師に送った手紙にはこう書かれてた。
「あなたは私達を、爆弾を研究するためのモルモットとお考えなのでしょう。」

核実験から28年後の1982年、アメリカが公表した文書には、ロンゲラップ島が爆心地のビキニ環礁と同じくらい汚染されていたと書かれていた。

核実験から31年後の1985年、住民は全員そろってロンゲラップ島を離れる決断をする。
325人の住民は、環境団体グリーンピースの協力で島を脱出。
住民はマーシャル諸島各地を散り散りばらばらになって暮らす。
この時から、ロンゲラップピープルと呼ばれるようになる。


島を離れて28年。(核実験から58年)
今また、帰島計画が巻き起こり、人々は戸惑っている。

帰島計画を進めるロンゲラップ地方政府、ジェームズマタヨシ首長は、除染作業を2年行う。
地面を25センチ除去し、サンゴを敷き詰める。
そして専門家は安全だと判断したという。
だが、除染したのは居住地域のみ。(0.1平方km)

アメリカのローレンスリバモア研究所による最新の調査結果、ハミルトン。
この研究所はアメリカのエネルギー省が所有する国立の研究所。
核兵器の研究開発を目的に1952年に設立された。
今もアメリカの頭脳ともいうべき研究所。

ハミルトン博士の発言。
「ロンゲラップ島は既に安全で除染をする必要もなかった。」
「住民が島を離れた1985年に比べ、放射線量は10分の1に下がった。」
「重要なのは、自然に下がったということ。除染をしなくても大幅によくなっている。」
「ただし、住民が食べ物を全て島のものを食べた場合は摂取する放射線量は3~4倍。」
「年間0.15ミリシーベルトの基準は超える。」
「マーシャル政府の基準は超えるが、島のものだけを食べる想定では無い。」

島民には慎重な意見や反発も多い。
「過去の経験から失敗は許されない。」
「子供たちへの影響が心配だ。」
「他の専門家は帰るべきでないと言った。」
「政府が議会に圧力をかけている。」
「アメリカは帰島しなければ援助をやめると言ったらしい。」
「何でおれたちが帰島を強制されなきゃいけないんだ。」

若い世代の間で、水爆実験やロンゲラップの話題が出ることはほとんどない。
一方、高齢者は島に帰って最期を迎えたいという願いが強い。

夢にまで見た故郷への帰島。
アメリカへの不信と永すぎた避難生活が壁となって立ちふさがる。

マタヨシ首長は、島に帰ったら養殖業を行って雇用を創出しようと夢を語る。
安全性は???

島民。
「汚染されているのは分かっています。でもあの島は慣れ親しんだ場所なんです。」
「私だって帰りたい。島が懐かしいんだ。」
「でも、子供たちが安全に暮らせるのか、、、。」
「本当に島がきれいなら帰らないはずはありません。汚染された故郷かそれとも他人の土地か。どちらかを選ぶしかないんです。」

水爆実験から58年。
島民たちは決断を迫られている。

「チェルノブイリ法日本版」の住民による条例制定が日本を変える(2016.5.26)

柄谷行人さんの
デモが日本を変える
を読み、ここで語られている「デモ」を「条例制定」と置き換えることができると思いました。「条例制定」とは、住民の、住民のための、住民による主権を行使するアクションだからです。

そこで改めて、次のことを、皆さんに訴えたいと思います。


   *****************

        「チェルノブイリ法日本版」の住民による条例制定が日本を変える

私は住民による条例制定のアクションをするようになってから、このアクションに関していろいろ質問を受けるようになりました。それらはほとんど否定的な疑問です。たとえば、「条例制定のアクションをして社会を変えられるのか」というような質問です。それに対して、私はこのように答えます。条例制定のアクションをすることによって社会を変えることは、確実にできる。なぜなら、条例制定のアクションをすることによって、日本の社会は、人が誰でも、普通に、条例制定のアクションをする社会に変わるからです。

では、日本には条例制定のアクショが少ないのか。なぜ、それが変なことだと思われているのか。それは、国民主権を、自分の力で、闘争によって獲得したのではないからで す。日本人は戦後、国民主権を得ました。しかし、それは敗戦によるものであり、事実上、占領軍によるものです。自分で得たのではなく、他人に与えられたも のです。では、これを自分自身のものにするためにどうすればよいのか。条例制定のアクションをすること、です。

私が受けるもう一つの質問は、条例制定のアクション以外にも手段があるのではないか、というものです。確かに、これ以外にも手段があります。そもそも選挙がある。その他、 さまざまな手段がある。しかし、条例制定のアクションが根本的です。条例制定のアクションがあるかぎり、その他の方法も有効である。条例制定のアクションがなければ、直接民主主義のアクションがなければ、それらは機能しません。今までと同じことになる。

今後に、チェルノブイリ法日本版の条例制定のアクションが下火になっていくことは避けられない。――と、いうふうに見えます。
しかし、違います。福島原発事故は、片づいていない。今後もすぐには片づかない。むしろ、今後に、被曝者の病状がはっきりと出てきます。また、福島の住民は永遠に郷里を離れることになるでしょう。つまり、われわれが忘れようとしても、また実際に忘れても、原発のほうが執拗に残る。それがいつまでも続きます。原発が恐ろしいのはそのことです。それでも、人々はおとなしく政府や企業のいうことを聞いているでしょうか。もしそうであれば、日本人は物理的に終り、です。

だから、私はこう信じています。第一に、チェルノブイリ法日本版の条例制定のアクションは長く続くということ、です。第二に、それは原発にとどまらず、日本の社会を根本的に変える力となるだろう、ということです。

皆さん、ねばり強く戦いを続けましょう。


2016年12月2日金曜日

2016年12月4日、宝塚市でチェルノブイリ法日本版条例の制定のための学習会を開きます

この学習会で喋った内容を元に、後日、書き上げた文章が以下です。
 →なぜ今、チェルノブイリ法日本版条例の制定なのか--チェルノブイリ法日本版その可能性の中心

交通事故に遭ったら、加害者は被害者の命、健康を救護する義務があります。それをしないでいたら(いわゆるひき逃げをしたら)救護義務違反の責任(最高で10年以下の懲役刑)が発生します。
だとしたら交通事故とは比較できないほど深刻な原発事故に遭った時、 加害者が被害者の命、健康を救護する義務を負うのは当然です。福島原発事故の加害責任を負う日本政府は、被害者家族が家族の命と健康を守るために汚染地帯から避難することを救護する義務を負うのは当然です。もしそれをせずにいたら、日本政府は救護義務違反の責任を問われても仕方ない(責任者は誰だ)。
こうした世にも不可解な事態が、311原発事故以来、日本に次々と発生している。
そのため最も被害を受けている人たちが泣き寝入りせざるを得ない世にも不条理な事態が次々と発生している。
こんな日本、おかしいんじゃないか。
根本から直していかなけりゃ、だめなんじゃないか。 
いろいろやることがあるんじゃないか。
‥‥などなど思っている人たちとそれを学びあう、語り合うのが今回のチェルノブイリ法日本版条例の制定のための学習会です。
                                              (以上、柳原敏夫)
◆日 時 12月4日(日)13:30~16:00◆場 所 西公民館 3F・セミナー室
◆テーマ 市民法「チェルノブイリ法」日本版について 
※どなたでも参加出来ます。参加費は無料です。

            ***************



2016年11月21日月曜日

科学技術を「科学の権威」を振りかざす者たちから我々市民の手に取り戻すために(2011.12.15)




かつて民主主義が到来する以前、「神の権威」が政治統治に利用され、神のお告げに基づいて政治決定がなされた(神政政治)。
しかし、今日、再びそれと同じ統治原理が科学の名のもとに行われている。「科学の権威」が政治統治に利用され、神の代わりに科学のお告げに基づいて政治決定がなされているからである。
かつて神政政治が政治の堕落を招いたように、科学の権威による統治も政治の堕落を招くのは必至である。それは狂牛病に端を発した2005年の米国牛輸入再開に至る一連のドタバタ騒ぎの経過を思い出せば一目瞭然である。ジャンク科学、似非科学が「科学の権威」の名のもとに政策決定の大義名分とされたからである。その結果、市民の胸中に、たとえ真相は藪の中だとしても、政治とリスク評価と称する科学に対する抜き難い不信感が一層形成された。しかし、このようなドタバタ劇は二度と反復してはならない。いつか途方もない人災の中に多くの人々を陥れるからである。それが3.11原発事故が私たちの頭に叩き込んだ最大の教訓である。
そのために、何をなすべきか。
かつて、人類は、神政政治の弊害の苦い反省から政教分離=「政治と宗教の分離」の原理が確立した。今日においても、科学の権威による政治の弊害を克服するために、これと同様の原理、政科分離=「政治と科学の分離」の確立が必要である。
しかも、この政科分離を絵に描いた餅ではなく、生きた原理として機能させるためにはこの原理を具体化する必要がある。それが「科学技術を我々市民の手に取り戻す」具体的な仕組みである。しかもそれは飽くなき利潤追求のために細分化・分断化・専門化された従来の科学技術ではなく、統合化、総合化され、循環・安全性を確保した科学技術である。「ローマは一日にしてならず」だが、3.11のあと、政科分離の壮大な取組みの最初の一歩がまもなくスタートする。それが「市民と科学者の内部被曝問題研究会」である。

       (「市民と科学者の内部被曝問題研究会」発足にあたってのメッセージ

 

2016年10月24日月曜日

3.11事件はなんだったのか?――見えない政変とチェルノブイリ法日本版制定――

                                                                      2016.10.23
                                                                       柳原 敏夫
原発事故は二度発生する
3.11福島原発事故は二度発生した。一度目は「自然と人間の関係」の中で、福島第1原子力発電所の中で、天災などの偶然の要素と科学技術の未熟さ、見込み違いによって発生し、二度目は「人間と人間の関係」の中で、我々の社会の中で、確固たる信念と世論操作に基づいて発生した。だから、二度目の原発事故はもはや単なる事故ではない。それは事故と言うよりむしろ事件と呼ぶのがふさわしい。それが3.11事件である。


10月15日の2つの出来事(2011年・2016年)
では、3.11事件の本質とはなんだったのか。それが私にはずっと疑問、謎だった。
その疑問は例えば次のように迫ってきた。
2011年10月15日、山本太郎は福島県郡山市にいた。この日、彼は判決を目前にした「ふくしま集団疎開裁判」を応援するデモの集会でこう発言した。

どうして(ふくしま集団疎開)裁判をしなくちゃいけないんだ?おかしいじゃないですか!国が率先して子どもたちを逃がす、そうしなけりゃダメなんですよ
(以下の画像をクリックすると彼のスピーチ動画が再生)


この裁判の代理人をしていた私は胸を突かれ、思わずつぶやいた。
「そうだ、なんで、こんな裁判をしなくちゃいけないのか」

こんな裁判をしなければならなかった理由は、ひとえに文科省が子どもたちの集団避難を決定しなかったことによる。そればかりか、文科省はその反対に、2011年4月19日、福島県の学校の安全基準を20ミリシーベルトに引き上げたからだ。文科省のこの通知を知った時、私は我が耳を疑った。文科省は気が狂ったのではないか。文科省こそ日本で最大のイジメの張本人だ、それどころか彼らは国際法上の「人道に関する罪」の犯罪者ではないか、と。

 他方、ひょっとして、それは原発事故直後の大混乱のせいではないかとも考えた。そのため、3.11事件の本質はずっと?のままだった。
5年後の2016年10月15日、その謎が解けた。この日、福島第1原子力発電所の脇を南北に走る6号国道の清掃を――その清掃地域は地元市民の土壌汚染測定によれば放射線管理区域の何倍も高い地域である――地元中高校生がボランティアでやるという「みんなでやっぺ!!きれいな6国」のイベントが実施されたからである。

 
放射線管理区域で中高校生が清掃するとはどういうことか
 原発事故前からずっと放射線管理区域でも仕事をしてきた小出浩章さんは放射線管理区域について次のように言っている。
「(そこは)みなさんは入ってはいけない場所。私のように特殊な人間だけが、特殊な仕事をする時に限って入って良いというのが放射線管理区域です。・・・
 
仕事が終わったらさっさと出て来いというのが放射線管理区域ですが、でも、簡単には出られないのです。・・・1㎡当たり4万ベクレルを下回らない限りは、管理区域の中から外へ出られない。・・・
もし私が、私が管理している放射線管理区域の中から放射能を持ちだして、どなたか一人を被曝させるような事をさせれば、私は犯罪者として処罰された筈なんです。日本の国家から。・・・
 原発事故前だったら、放射線管理区域の中に一人でも人々を置くことは、犯罪として処罰された。
原発事故後は、放射線管理区域の中にどれだけ人々を置いても、誰も処罰されない。
チャップリンは「殺人狂時代」で「一人殺せば悪党、百万人殺せば英雄」と言った。
今まさにそれがここで起きているのです。」(以下の画像をクリックすると彼のスピーチ動画が再生)

確信犯の6国清掃ボランティアの拠り所
 この「殺人狂時代」が今、福島で起きている。それが先週実施された「みんなでやっぺ!!きれいな6国」清掃ボランティアである。そこから考えてみたとき、さきほどの謎が解けた。原発事故から5年経過しても、依然、このような正気を失ったイベントが堂々と実施されている。それは決して無知によるものではない。昨年も同じイベントが実施され、批判があったのを重々承知で今年も実施したのだから。これは確信犯であり、起こるべくして起きた出来事だ。では、主催者は一体どこに拠り所を置いてこの正気を失ったイベントを確信をもって実施したのか――思うに、その拠り所の源泉は3.11事件にある。
なぜなら、3.11事件で日本政府がやったことは憲法上の言葉でいえば、国民主権を捨て、主権は原子力ムラにあるという原子力ムラ主権を採ることに改めることだったからである。もっとも、それは何食わぬ顔をしてこっそり決定された。同時に、それはしっかり実行された。その結果、3.11事件ですべてがひっくり返った。その象徴的な例が4.19文科省通知だ。元来、国民から付託され子どもたちの教育とすこやかな成長を支援する責任を追い、自ら子どもたちの最大の守護者であることを任ずる文科省が子どもたちの最大の迫害者になったのだから。これは戦後70年間で一度もなかった、21世紀の日本の一大政変であり、原発事故という一種の戦争(この意味はのちに述べる)の中で敢行された、見えないクーデタであった。むろん日本政府も安穏とこれを決断実行したわけではない。「ただちに安全上問題が生じることはない」と必死に言い訳して時間稼ぎする間に「情報を隠すこと」「様々な基準値を上げること」、そして「事故を小さく見せること」の正気を失った政策を次々と実行してきたのであり、その総仕上げが今、遂行中の「安全な福島」への帰還政策と支援打切りだった。


過去の見えない政変
ただし、このような政変は日本史上、初めてのことでなかった。今から70年前に経験している。それが1945年8月、日本政府がポツダム宣言を受諾したとき、日本の主権はそれまでの天皇主権を捨て、国民主権を採ることに改められたからである。明治憲法のもとで、天皇主権から国民主権へ変更することは合法的には許されず、従って、憲法上からは、これは超合法的に、ひとまず平穏のうちに行われた「ひとつの革命」である。これが「八月革命[1]である。もっとも、今回と「八月革命」とでは主権変更の向きが正反対である。しかし、世界大戦という戦争の中で遂行された、見えない政変という意味で両者は共通している。


放射能事故は一種の戦争である
のみならず、放射能事故は一種の戦争である。それは原子力発電所だけでなく、周辺の放射能汚染地域の人々にとっても戦争である。もともと放射能には二重の世界があって、私たちの五感で感じる日常世界にとって放射能は何も変化が感じられない。しかし、ひとたび日常世界を一皮むいてミクロの世界から眺めたとき、放射線は私たちの細胞を破壊し、健康被害を引き起こしている。ミクロの世界では、放射能汚染地域は桁違いな量でくり返される核分裂と同時に発射される放射線とのたえまのない戦いの世界である。それは原爆とはちがうが、もうひとつの核戦争である。
他方、戦争の本質は日常世界が断ち切られ、非日常世界が姿を現わすことでもある。戦争について考え続けた作家大岡昇平は、「レイテ戦記」のインタビューで戦争についてこう述べた。
ひとりひとりの兵士から見ると、戦争がどんなものであるか、分からない。単に、お前はあっちに行け、あの山を取れとしか言われないから。だから、自分がどういうことになって、戦わされているのか分からない。


しかし、3.11事件のあとの私たちも実はこれと同じではないか。なぜなら、

3.11のあと、ひとりひとりの市民から見ると、福島原発事故がどのようなものであるか、どうしたらよいのか、真実は分からない。単に、「健康に直ちに影響はない」「国の定めた基準値以下だから心配ない」とかしか言われないのだから。だから、一体自分がどういう危険な状態にあるのか、どう対策を取ったらよいのか、本当のことは分からない」。
この意味でも、放射能事故は一種の戦争である。 
この意味で、福島原発事故のあと、放射能汚染地域の人々は戦争に巻き込まれた。しかし最大の問題は人々がそこから救い出されなかったことだ。日本政府はこれらの人々を守るのではなく、我が身と原子力ムラを守ることに決めたからである。それが3.11事件=3月政変である。


日本近代史と日本現代史の転換点
さらに、上記のインタビューで大岡昇平は8月6日から9日、15日までについて、次の指摘をしている。
8月6日が広島原爆投下、9日が長崎。15日が終戦。これが日本近代史の三大転換点ですよ。6日から15日までは我々が正気を取り戻さなければならない日だ。いくら戦争のことを忘れようたって、現に日本は不沈空母になりつつあり、将来に核戦争という大きな人類的な危機が存在している中で、正気になる時が来たと言えるんじゃないですかね」(1984年8月15日「大岡昇平 時代への証言」) 


つまり、広島・長崎の原爆投下と終戦(ポツダム宣言受諾)が明治以来の天皇主権を捨て、国民主権に転換した「八月革命」を引き起こした転換点となる出来事だった。将来に核戦争という大きな人類的な危機が存在している中、私たちはこのことを思い出し、正気に戻る必要がある、と。

同様の意味で、2011年3月11日からについて、次のことが言えるのではないか。
3月11日が福島原発事故。3月21日が国際原子力ムラのICRPの勧告[1]。4月19日がその受諾を前提にした文科省20ミリシーベルト通知[2]。これが日本現代史の三大転換点だった。3月11日から4月19日までは我々が正気を取り戻さなければならない日だ。いくら原発事故のことを忘れようたって、
原発事故収拾と放射能汚染は終わっておらず、現在、放射能汚染地の人々の危機が進行している中で、正気になる時が来たと言えるんじゃないですか」

 つまり、日本史上未曾有の原発事故とICRP勧告受諾が八月革命以来の国民主権を捨て、原子力ムラ主権に転換した「三月政変」を引き起こした転換点となる出来事だった。現在、もうひとつの核戦争の中にいる放射能汚染地の人々の危機が進行している中、私たちはこのことを思い出し、正気になる要がある、と。


日本現代史の正確な認識と異常事態の正常化
ただし、天皇主権が国民主権に変更された「八月革命」に対し、3.11事件=「三月政変」は方向が逆で、国民主権が独裁的な主権に変更された。その結果、2012年から官邸前にどれほど人々が集まり、声をあげても全く聞き入れられず、これを見た外国特派員が「ヨーロッパではあり得ない。日本は民主主義国家じゃない」と言ったのは文字通り正確な観察だった。2015年9月、国民投票による憲法改正をせず、解釈改憲で戦争法案を成立させてしまうのも「三月政変」の担当者にとって朝飯前のことである。未来の私たちの見取り図とその実行方法は既に「三月政変」で決まっている。
その結果、今この時点で、最大の犠牲者は放射能汚染地の人々とりわけ子どもたちである。と同時にそれは、私たち全員の未来の姿でもある。
この前代未聞の異常事態を私たちはただす必要がある。しかし、そのためには、大岡昇平が言ったように「広島・長崎の原爆投下と終戦を思い出し、正気に戻る」だけでは足りない。今の事態は3.11事件で国民主権が奪われているからである。そこで、主権を原子力ムラから国民の手に変更する必要がある。それは本来の主権者である私たちだけが成し遂げることができる事業、有能な一握りの専門家では不可能で、私たちひとりひとりが総結集するによって初めてなし遂げることができる事業である。この私たちがやらなかったら永遠にこのままである。
そのためには、私たちは正気に戻った上で、まず、
1、放射能に関する様々な基準・規制を、無条件で3.11前の状態に戻すこと。
この無条件復帰が不可欠である。しかし、それだけでは足りない。既に放射能災害が発生したからである。放射能災害で被害を受けた人々の救済に正面から取り組んでこそ初めて主権を国民に復帰させることができる。幸い、私たちにはそのお手本がある。チェルノブイリ事故後に旧ソ連で制定された世界初の放射能災害に関する人権宣言であるチェルノブイリ法である。それが、
2、放射能災害から国民の命と健康と生活を守る人権法を制定すること、すなわちチェルノブイリ法日本版を制定すること。

400以上の原発がある地球上で、いつどこで原発事故があってもおかしくない今日、今ここで、放射能災害から人々の命と健康と生活を守る人権法・人権宣言が地球上になくてはならない。この放射能災害に関する人権法・人権宣言制定の呼びかけは、5年前原発事故を起し、その猛省の上に立って今後チェルノブイリ法日本版を制定する日本から、そして憲法9条を持ち、国際平和を願って4年後に東京オリンピック・パラリンピックを開催する国日本から行うべきである。それが
3、原発を輸出するのではなく、チェルノブイリ法日本版を輸出すること、つまりチェルノブイリ法日本版を世界に輸出して、チェルノブイリ法国際条約が制定されるように率先して取り組むこと。

 以上の3つが2020年の東京オリンピック・パラリンピックまでに私たち主権者自身の手で成し遂げる最も大切な課題である。かつて中国の作家魯迅は道とは何かについて、こう書いた。
もともと地上には、道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ」(故郷)。それは「いかなる暗黒が思想の流れをせきとめようとも、いかなる悲惨が社会に襲いかかろうとも、いかなる罪悪が人道をけがそうとも、完全を求めてやまない人類の潜在力は、それらの障害物を踏みこえて前進せずにはいないものだ。」(随感録)

2020年、私たちは口先ではなくて、真実、この国の主権者としての地位に復帰し、命と健康と生活と平和を愛する地球市民として、胸を張って、全世界から人々を迎えたいと思う。



まとめ
3.11福島原発事故は二度発生した。二度目の3.11事件で、日本政府は国民主権を捨て、原子力ムラ主権を採ることに改めた(三月政変)。以後、原発に限らず、解釈改憲による戦争法案の成立など全ての分野にわたって異常事態が一気に加速した。
これらの異常事態の原点は3.11事件=見えない三月政変にある。
これらの異常事態を正常化するためには、原発事故の最大の被害者である放射能汚染地の人々の救済を実現し、主権を再び私たち市民の手に復帰させる必要がある。
その具体的な取組みが、放射能災害に関する世界最初の人権法・人権宣言であるチェルノブイリ法の日本版の制定である。
日本社会の再建と未来はこの原点を無視してはあり得ない。



[1]政治学者の丸山眞男が考え出し、憲法学者の宮沢俊義が丸山の了承を得て法学的に再構成したとされている今日までの通説(宮沢「八月革命と国民主権主義」19465月)。
[1] 日本政府に、緊急時被ばく状況、現存被ばく状況の名の下に年20100 mCv120mCvの大量被曝を容認した2007年勧告を実施するように求めた異例の勧告。
[2]福島県教育委員会等に宛て、文科省が、ICRP勧告を大義名分にして、暫定的に福島県内の小中学校等の安全基準として年20mSvを適用する通知

2016年1月23日土曜日

国連人権理事会のUPR(普遍的定期審査)を受けて、NGO合同記者会見から(2012.10.31)

2012年10月末、ジュネーブで開催した国連人権理事会のUPR(普遍的定期審査。今回の審査の対象が日本政府だった)に合わせ、ジュネーブの国連施設内で日本の人権NGOの主催によるサイドイベントが開催された。UPR終了後に、サイドイベントに出席したメンバーで合同記者会見を開いたときの発言です。

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                                  ふくしま集団疎開裁判弁護団 柳原敏夫

 今日のUPR審査を受けて、3つの印象があります。

1、一番目は世界各国は日本の人権状況について現状認識が全くできていないという印象です。
1回目の2008年のUPR審査の時の延長として、それとの連続性の中に、継続性の中にいるという認識をしているというふうに思いました。

しかし、日本は2011年の3月以降、人権状況は一変しています。
この時以来日本は放射性物質からの不断の攻撃という、言わば目に見えない、匂いもしない低線量被ばくの核戦争という戦争に突入し、今なお、その戦争の継続中にあります。

その戦争の最大の被害者は、子どもたちです。
彼らの命への脅威です。


この現状認識が世界の各国は全くできていないことに驚きを隠しきれません。

2、2番目は、死刑制度の熱心な言及があったことです。
「犯罪を犯し死刑判決を受けたものを救済すべきだ」という勧告をされていました。

だとすれば、福島の子供たちは犯罪も犯していないのに死刑と同様の命の危機にさらされています
このような福島の子どもたちは救済すべきだと勧告するのが当然だと思います。
死刑判決に言及する世界の人達は、
このような福島の子供たちも当然言及すべきだというふうに思いました。

3、最後は、オーストリアの政府が、唯一、福島の子どもたちの人権に言及したことです。

1960年代の最大の人権問題はベトナム戦争でしたが、
それが世界に認知されたのは5年以上かかりました。
しかもそれは市民たちチョムスキーたちの不断の取り組みによって、その認知がされました。

私たちも同じように、市民の不断の取り組みを通じて、
この福島の問題が日本のみならず、世界の最大の人権侵害の問題であるということを、
世界に認識してもらえるように取り組みをする決意を今日新たにしました。

以上です。