2017年11月16日木曜日

チェルノブイリ法日本版の制定は私たちの意思で決められることではなく、子どもたちの命令である(11.11新宿デモのスピーチから)

被ばくから子どもたちの命、健康、暮らしを守るチェルノブイリ法日本版の制定は大人たちの意思で自由に決められることではなく、天子である子どもたちの命令なのです。

これは、2017年11月11日の「脱被ばく」を求める新宿デモでスピーチした以下の話(ただし、後半加筆)の中の一節です。

   ************** 

思ったままに言いたいことを率直に語るのが、このデモの意味、大切なところです。
その積りで、私も率直に話します。

先日、子ども人権裁判の原告のお母さんの陳述書を作成するため、ヒアリングをしました。その中で、2011年4月に文科省が出した20ミリシーベルト引き上げの通知をどう思いましたか?と尋ねたところ、このお母さん曰く、
「バカじゃないの、文科省は‥‥」
 これが福島のお母さんの率直な気持ちです--文科省は原発事故後の自らの行動によって、自らを存在しないにひとしい、ゴミみたいな存在に貶めたのです。
‥‥‥‥
中国では、昔、王さまのことを天子と呼びました。王さまは、絶対者である天の委託を受け、天の代理、いわば天の子として、人民のために天命を実行し、人民を支配する存在だったからです。王さまが王さまである所以・根拠は、血統ではなく、もっぱら天命を忠実に実行しているかどうかにありました。だから、ひとたび王さまが天命を実行していないとされれば、王である根拠を失い、滅ぼされてもよかったのです(易姓革命)。

もし天子が天に代わって天命を実行する者だとしたら、原発事故のあとの天子とは、文字通り、子どもたちのことだと思うようになりました。
チョムスキーは2012年1月、ふくしま集団疎開裁判の会に、次のメッセージを送ってくれました。
社会が道徳的に健全であるかどうかをはかる基準として、社会の最も弱い立場の人たちのことを社会がどう取り扱うかという基準に勝るものはない、

この言葉はチョムスキー個人の見解というより、国境、時代、人種を超えた普遍的な言葉です。だから、これは東洋で言う天の言葉=天命です。そうだとすると、この天命を忠実に実行できる者とはこの問題の当事者である「社会の最も弱い立場の人たち」です。具体的に、その人たちとは、チョムスキーのメッセージの続きに書かれた、、
許し難い行為の犠牲者となっている子どもたち以上に傷つきやすい存在、大切な存在はありません。
と示された、これ以上に傷つきやすく、大切な存在はない「子どもたち」のことです。
つまり、社会の最も弱い立場にいる子どもたちこそ、天に代わって、天が心から願う天命を忠実に実行できる天子です。

このとき、原発事故により 許し難い行為の犠牲者となっている天子=子どもたちの声に耳をすませたら、私には次のつぶやきが、
「被ばくから子どもたちの命、健康、暮らしを守るチェルノブイリ法日本版の制定は大人たちの意思で自由に決められることではなく、天子である子どもたちの命令である」
が聞こえてきます。
 このつぶやきは天子である子どもたちの命令=天命です。

だから、チェルノブイリ法日本版の制定は天命=子どもたちの命令なのです。

‥‥‥‥


投稿:なぜ「憲法の本質・人権の本質は抵抗することつまり抵抗権にある」のか(2017.11.16)

なぜ、憲法(正確に言うと、近代憲法)の本質が抵抗権なのか。
それは何よりもまず、近代憲法の歴史が証明しています。
(1)、18世紀に近代憲法が出現した時、そこで、抵抗権が人権の中核であることをはっきりとうたったからです。

「 政府は人民、国家または社会の利益、保護および安全のために樹立されるものであり、されるべきである。‥‥いかなる政府でもこれらの目的に反するか、または不十分であると認められる場合には、社会の多数の者は、その政府を改良し、改変し、または廃止する権利を有する。この権利は、疑う余地のない、人に譲ることのできない、また棄てることもできないものである。」(バージニア権利宣言3条)

「われわれは、次のような諸原理を自明だと考える。すなわち、すべての人間は生まれながらにして平等であり、すべての人間は神より侵されざるべき権利を与えられている、そうした権利のうちには、生命、自由および幸福の追求が含まれている。
 そして、その権利を確保するために、人々の間に政府が作られる。、政府の正当な諸権力は、被治者の同意に基づくものである。どのような政治政体も、これらの目的を害するようになる場合は、それを変更し、または廃止し、彼らの安全と幸福を実現するためにいちばん適当と考えられるような原理に基礎を置き、また、そういう形式でその権力を組織して新しい政府を作ることは、人民の権利である。以上の諸原理をわれわれは自明のものと考える。」(アメリカ独立宣言)

「すべての政治的結合の目的は、人の、時効によって消滅することのない自然的な諸権利の保全にある。これらの諸権利とは、自由、所有、安全および圧制への抵抗である。」(フランス人権宣言2条)

「圧制への抵抗は、他の人権の帰結である」(1793年6月24日フランス憲法33条)
「政府が人民の権利を侵害するときは、反乱は、人民およびその各部分にとって、もっとも神聖な権利であり、かつ、もっとも不可欠な義務である。」(同35条)

(2)、その後、19世紀の憲法から抵抗権は姿を消します。しかし、ファシズムの嵐が吹き荒れた第二次世界大戦のあと、近代憲法は再び、抵抗権が人権の中核であることをうたいました。

「 フランス人民は、1789年の権利宣言によって承認された人および市民の権利および自由‥‥を厳粛に再確認する」()1946年フランス第四共和制憲法前文)

「憲法に違反して行使された公権力に対する抵抗は、各人の権利であり、義務である。」(1946年ドイツ・ヘッセン憲法147条)
「憲法で確定された人権が憲法に反して公権力によって侵されたときは、抵抗は各人の権利であり、義務である。」(1947年ドイツ・ブレーメン憲法19条)
「道徳と人間性に反する法律に対しては、抵抗権が成立する。」(1947年ドイツ・マルクブランデンブルク憲法6条2項)

 ひとたび姿を消した抵抗権がなぜ再び、憲法の中に刻み込まれたのか。それは、「すでに十分に確立したと思われていた自由主義的政治体制--したがって、その子である人権の保障--が、ファシズムの擡頭の前にあのように無力であったという両戦争間の貴重な(痛恨の)経験にかんがみて、人権の保障を少しでもより強化しとうという悲願」(宮沢俊義※1)「憲法Ⅰ」138頁)に由来するものです。

 第2に、それは理論的にみても、憲法にとって抵抗権の行使が不可欠だからです。
昔、埼玉の「I Love 憲法」ミュージカルで、参加者の人たちにこんな話をしたことがあります。
--皆さんは「I Love 憲法」「I Love 憲法」とよく口にするけれども、しかし、振り返ってみて、憲法を愛するというのは一体どういうことなのでしょうか。それを真正面から考えたら、とても不思議なことではないでしょうか。
 というのは、憲法を愛するというけれど、そもそも憲法は目に見えるものなのでしょうか、或いは、手で触ることができるものなのでしょうか。もし六法全書という紙に書いてあると言うのでしたら、それならば、その紙を燃やしてしまえは、憲法はなくなるんじゃないでしょうか。それとも、紙を燃やしてもなお存在するというのであれば、それはどのように存在しているものなのでしょうか。紙を燃やしてもなお存在するというそんなものを、手で触ったことがある人はいるのでしょうか。
 要するに、そんな不確かな、訳の分からない代物を、愛するというのは、いったいどういうことなのでしょうか。
 これについて、私は次のように思うのです。
 私の妹がこのミュージカルに参加しています。彼女はこれまで専業主婦でずっと家にいました。しかし、そのうちに、何だかこれはおかしい、いつも家に縛り付けられるのではなく、私にももっと私なりの生き方があってもいいのではないかと思うようになりました。その中で、彼女は、この「I Love 憲法」のミュージカルを見つけました。ここは彼女にとって、新しい生き甲斐の場だったのです。しかし、彼女の夫は、このことを必ずしも歓迎しませんでした。家に、自分の元に置いておきたかったのです。しかし、彼女は、私にも自分なりの生き甲斐を求める権利があると思ったのです。だから、夫の反対を押し切って、それに抵抗して、ここに来ました。
これが憲法なのだと思うのです。
憲法では、いかなる個人にも、その人なりの幸福追求権を保障しています。しかし、それは、彼女が、夫の反対に抵抗してこの場に来るという行為を通じて初めて実現されるものなのです。
だから、彼女は、この場に来るという行為を通じて自分の人権を実現し、憲法を愛することを実行している、つまり、「I Love 憲法」を実行しているのです。

 このような意味で、憲法の本質は何かといえば、それは個人の尊厳や平和的生存権や諸々の人権を踏みにじる侵害行為に対して「抵抗する」ことにあります。
だから、憲法は何処にあるのか? --それは、こうした人権侵害行為に抵抗する限りにおいて、それを実行するすべての市民の各自の胸の中にあるのです。
だから、市民の各自の胸の中にある憲法・人権は、市民ひとりひとりの心がそれを放棄しない限り、決して紙みたいに燃やすこともできなければ、暴力で踏みにじることもできなければ、法律で歪曲することもできないものなのです。


第3に、さらには、抵抗権は憲法の本質、人権の本質にとどまらず、私たちが生命として存在することに由来する「生きるということそのもの」だということです。

生命として存在すること(生物)とは何か。それは無生物とどこが違うのか。この問いに、私にとって最もピッタリ来た説明は次のものでした--自然界の法則であるエントロピー増大の原則は生物にも降りかかる。その結果、高分子は酸化され分断される。集合体は離散し、反応は乱れる。タンパク質は損傷を受け変性する。しかし、生物はこの法則を受け入れ、なおこれを受け入れない抵抗の仕組みを見つけ出し、実行した。それが、やがて崩壊する構成成分をあえて先回りして自ら分解し、このような乱雑さが蓄積する速度より速く、常に成分を再構築すること。このダイナミックな分解と再構築を実行する点に生物を無生物と分かつ最大の特徴がある(福岡伸一「生物と無生物のあいだ」166頁以下)。

 生物が生物である所以とは自然界の法則であるエントロピー増大の原則に抵抗して秩序を自ら作り上げることにほかならない。この意味で、抵抗は生物であることの証(あかし)である。
だから、政府の圧制により人間らしく生きることを否定されるとき、「冗談じゃねえ!」とこれに抵抗することは、別に誰かから教わって学んだからではなくて、自分が生命ある存在であることそのものからやって来る根源的な反応なのです。
その意味で、抵抗をしないとき、或いは抵抗をやめたとき、生物は無生物または生きる屍(しかばね)になるしかありません。心の病気になるのは当然です。

 だから、私たちは、生物=人間であることをやめない限り、原発事故前であろうが事故後であろうが、非人間的な扱いに対し、抵抗しない訳にはいかないのです。
 だから、広場やデモで「おかしい!」と意見を表明し、単に金の問題だけでは片付かない、本来の救済はいかにあるべきかを共に問答し探求しない訳にはいかないのです。それをやめたとき、わたしたちは生命体であることをやめ、運命に逆らわず無感動の中で生きるしかばねになるしかないからです※3)。

結論:憲法を愛する、人権を愛するとは抵抗することであり、生きるということそのものです。
新しい人権の1つである「避難の権利」の保障を求める人たちは、憲法を愛する人たちであり、抵抗する人たちであり、生きている人たちです。

※1)私の知る限り、抵抗権の問題を最も探求した人物は長野市出身の憲法学者宮沢俊義、美濃部達吉の弟子・後継者として、日本の憲法学界に最大の影響を残した保守本流の憲法学者です
   しかも宮沢は、単純な抵抗権の賛美者ではなく、抵抗権が濫用された場合の実際的危機を重々承知した上で、なおかつ抵抗権の必要性・不可避性について考えた人です。

《抵抗権の問題は、実定法(※2)の問題ではなくて、 実定法を越えた問題--法哲学の問題--である。単なる「法律家」の問題ではなくて、「人間」の問題である。》(憲法Ⅰ 166頁)
 《個人の尊厳から出発する限り、どうしても抵抗権を認めないわけにはいかない。抵抗権を認めないということは、国家権力に対する絶対的服従を求めることであり、奴隷の人民を作ろうとすることである。》(同署 173頁)

※2)社会で実際に制定され、適用されている法律のこと。自然法と対立して使われる概念。

※3)(参考)->抵抗権実行=3.4新宿デモの呼びかけ(17.2.7)

2017年11月15日水曜日

被ばくから避難する権利は既に憲法に埋め込まれており、米沢「追い出し」訴訟は憲法からは勝負はついている(2017.11.15)

 関連記事「米沢「追い出し」訴訟に抗議する
     「なぜ『憲法の本質・人権の本質は抵抗することつまり抵抗権にあるのか

                  目 次
1、すべての人権は既に憲法に埋め込まれており、日本政府といえども、いかなる契約によってもこれを奪うことはできない。... 1
(1)、全く新しい憲法の出現... 1
(2)、すべての人権は近代憲法という貯蔵庫に保管されている... 1
2、放射能災害における被ばくから避難する権利は人権であり、憲法で保障されている。... 2
3、私たちは既に守られている。同時に、それを実現するかは私たち自身の手にかかっている... 3

1、すべての人権は既に憲法に埋め込まれており、日本政府といえども、いかなる契約によってもこれを奪うことはできない。

(1)、全く新しい憲法の出現 

国の基本法といわれる憲法は昔から存在しました(例えば聖徳太子が作ったとされる一七条憲法)。しかし、現在私たちの前にある憲法は名前は同じでも、昔からある憲法とは全くちがうものであることに注意する必要があります。それは、18世紀に至り、古来から存在する憲法を根本的に否定して出現した、全く新しい性格のものだからです(この新しい性格を有する憲法を近代憲法とよびます)。
では、近代憲法の全く新しい性格とはどんなものか。それは次の2つの点に現れています。1つは、法律の本質は「命令」であり、「人を殺してはならない」といった命令は普通、私たち市民に向けられたものです。ところが近代憲法の「命令」は誰に向けられたものか。それは私たち市民にではなく、国家に向けられたものなのです。それでは、国家に向けられたその「命令」とはどんな内容のものか。端的に言えば、それは「市民ひとりひとりは最高の価値が認められる人権を有している。この市民が有する人権を国家はぬかりなくしっかり保障しろ、決して市民が有する人権を侵害するなかれ」です。これが2つ目の特徴です。
このことを世界に先駆けて表明した近代憲法が1776年のバージニア権利宣言で、第1条でこう宣言しました[1]
すべて人は、生まれながらにしてひとしく自由で独立しており、一定の生来の権利を有するものである。これらの権利は、人々が社会を組織するに当たり、いかなる契約によっても、その子孫からこれを奪うことのできないものである。かかる権利とは、すなわち財産を取得所有し、幸福と安全とを追求獲得する手段を伴って、生命と自由とを享受する権利である。
 人権とは国家といえども、また市民が自ら締結したいかなる契約によってもこれを奪うことはできない神聖不可侵の権利なのです。

(2)、すべての人権は近代憲法という貯蔵庫に保管されている

 とはいっても、近代憲法の制定当時、すべての人権が近代憲法のカタログに書き込まれていたわけではありません。例えば核兵器が存在しなかった時代に、核戦争を前提にした人権侵害状況を想定して人権保障をすべて書き込むことは不可能です。

 そこで、近代憲法は、この問題についてどういう態度を取ったのか。近代憲法は一方で、「人権が人が生まれながらにして自由で平等な存在であることに基づき認められる生来の権利で、日本政府といえども、いかなる契約によってもこれを奪うことはできない最高の価値を有するものである」と近代憲法が保障する人権の一般原理を明らかにしました。他方で、その当時、人権保障の必要が切実な課題となっていた個々の人権を取り上げ、これを近代憲法のカタログに書き込みました。法の下の平等(特権や世襲制の否定)、公正な刑事訴訟手続の保証、言論出版の自由、宗教の自由などです。ここに書き込まれた人権はその当時までに、宗教戦争など深刻な人権侵害が発生し、これに対し、人々がこれに抗議し抵抗し、人権侵害が起きないように人権保障の必要性を訴えた末に、それが認められ、近代憲法のカタログに書き込まれるに至ったものです。
 
 この意味で、近代憲法は、すべての人権をカタログに書き込むことはせず、未来の状況の変化により新たな人権侵害と認められる事態が発生したときに、人権の一般原理に照らして新たな人権侵害の防止のため、これを新たな人権として近代憲法のカタログに追加して書き込むことにしたのです。
その有名な出来事が第一次世界大戦以後に登場したワイマール憲法をはじめとする一連の近代憲法です。そこには、かつて近代憲法が保障した「私有財産制の絶対化」がその後、深刻な貧富の格差をもたらし、人々の生存を脅かすに至ったことを受けて、人々がこれに抗議し抵抗し、各人に人間的な生存を保障するように訴えた末に、人間的な生存を保障する人権が認められ、近代憲法のカタログに追加して書き込まれるに至ったのです。これが社会権と総称される生存権、労働権などの新しい人権の誕生です。
 近代憲法とは個人の尊厳が脅かされる場合にそれを回復するためにたえず進化する生命体のような存在なのです。つまり、新たな人権侵害状況が発生した時、それにより損なわれ、脅かされる市民の生命、自由、平等の人権を回復するために、新たな人権が近代憲法のカタログに追加して書き込まれることを前提にしているのです。
くり返すと、近代憲法は誕生と当時に最初から、人権の一般原理(人権とは人が生まれながらにして自由で平等な存在であり、それはいかなる状況においても変わることのない至高の存在であると承認して、この存在に基づき認められる生来の権利である)に基づきすべての人権を保障するものであり、その上で、個別に書き込まれた人権は、その時々の状況において発生した人権侵害を防止するために具体化されたものでした。日本国憲法が人権の総則規定で、「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。」(11条前段)と定めたのもこのような意味です。言ってみれば、近代憲法という貯蔵庫には最初からすべての人権が保管されている。私たちはその都度必要に応じて、憲法という貯蔵庫から必要な人権を取り出り、その出動により私たちの生命、自由、平等を脅かすものから私たちを守るのです。

2、放射能災害における被ばくから避難する権利は人権であり、憲法で保障されている。

 原発事故などの放射能災害は近代憲法がこれまで想定していなかった過酷な人権侵害状況です(これを想定している近代憲法はチェルノブイリ原発事故後に制定されたウクライナ憲法くらいです)。だから、近代憲法が放射能災害により発生した人権侵害を防止するために明文で人権保障の規定を置いていないのは当然です。しかし、だからといって、近代憲法はこの事態を無視することはできません。なぜなら、近代憲法の最大の使命は私たちの生命、自由、平等を脅かす全てのものから私たちを守ることにあるからです。原発事故が私たちの命、健康、暮らしを根底から脅かす、未曾有の大惨事であることは周知の事実です。従って、この新しい人権侵害状況に対して、近代憲法は、被害者の命、健康、暮らしを守るため、被ばくから避難して、命、健康、暮らしを保障する人権(以下、避難の権利をよびます)を認め、近代憲法のカタログに追加して書き込む必要があります。
この意味で、放射能災害において被ばくから避難する権利は人権であり、憲法で保障されているのです。
なお、ウクライナ憲法のように明文で追加して書き込まれるか、それとも解釈で追加して書き込まれるかということは法の技術的なことであって、本質には関係ありません。本質的に重要なことは、原発事故という過酷な人権侵害状況が発生した以上、既に憲法という貯蔵庫に保管されている避難の権利が憲法から取り出され、出動することにより被害者の命、健康、暮らしが守られるということです。

 だから、福島原発事故の被害者の人たちは、安全神話のもとで原発事故を想定外としていた日本の法制度の下において明文の規定がなくとも、避難の権利は人権であり、憲法で保障されているものであるとして、日本政府に対し、この人権保障を誠実に実行しろと要求することができるのです。
以上の通り、近代憲法の理念からは、米沢「追い出し」訴訟は既に勝負はついています。

3、私たちは既に守られている。同時に、それを実現するかは私たち自身の手にかかっている

 このように、近代憲法の理念によれば、原発事故のように人々の命、健康、暮らしが脅かされるという深刻な人権侵害状況が発生した場合、憲法は本来的に(自動的に)、人権侵害状況から人々の命、健康、暮らしを守るために、必要な人権が憲法から取り出され、発動されることになります。
次の問題は、これが理念だけではなく、現実にも自動的に実行されるかです。
これが憲法の最大の難問「人権宣言の実効性をいかに担保するか」という問題です。人権宣言も現実に実行されない限り、そこに書き込まれたどんな人権も絵に描いた餅に終わります。そのため、人類はこれまで実効性を担保する方法を模索してきましたが、世界史が教えることは、人権侵害状況が発生した場合に人権保障を発動させる根本的な力となるものは人民の抗議、抵抗という行動にあるという歴史的事実です。その事実は近代憲法誕生の際にも、またファシズム打倒後の世界人権宣言の制定の際にも高らかに宣言されました。
この意味で、米沢「追い出し」訴訟は憲法の理念からは勝負はとうについていますが、さらに、これを現実にも勝負をつけるために、それを実現する根本の力は避難の権利の深刻な侵害に対し、この人権侵害が起きないように人権保障の必要性を訴える人民の抗議、抵抗という行動をすることにあります。
正義が抵抗する者の側にあるとき、抵抗は止むことはなく、抵抗が止むことがない限り、どんな紆余曲折があろうとも、いつか必ず承認される時が訪れる。これが人権の歴史が証明する法則です。
 
私たちは既に守られています。粘り強く抵抗を続けましょう。

 最後に、この避難の権利を具体化したものがチェルノブイリ法日本版です。私たちは今、チェルノブイリ法日本版の制定を実現する取り組みを進めています()。
チェルノブイリ法日本版の制定の行方は米沢「追い出し」訴訟の行方と運命をともにするものであることを痛感しています。
 避難の権利が人権であることを現実のものにするため、ともに
粘り強く頑張りましょう。


[1] 人類の歴史に奇跡が存在し得るとしたら、近代憲法が出現したことは奇跡の1つであり、これはまた真の希望の1つである。

なぜ今、チェルノブイリ法日本版条例の制定なのか
 
   中間報告:【チェルノブイリ法日本版】伊勢市条例(柳原案)  


   日本からのメッセージ(2017.6) 

   チェルノブイリ法日本版の条例制定を一緒にやりませんか

2017年11月4日土曜日

先端科学技術の闇に穴をあける試み、10年の集大成を提出(2017.11.3)

2017年10月31日と11月1日、遺伝子組換えイネの実験ノートの情報公開を求める裁判において、この実験ノートの情報公開請求をした2007年以来10年間に考え、検討してきた原告の主張を集大成した書面(事実問題に関する主張書面法律問題に関する主張書面)を提出しました()。

)その後の経過
・11月8日、この裁判の第20回目の弁論が開かれ、 当日で審理終結、判決言渡しが3月2日(金)午後1時25分と決定(その報告は->こちら)。
・11月9日、原告は、事案整理のため、法律問題・事実問題に対する原告主張を網羅した主張一覧表を作成、裁判所に提出(一覧表は->こちら

この裁判は、人類の科学技術の総決算として登場したバイオテクノロジーという先端科学技術の研究現場で、実際に何が行なわれているのか、その闇の現実に光を当てようとするシビリアンコントロール(先端科学技術に対する市民の監視)の取り組みです。
この裁判の動機の1つが、バイオテクノロジーの開発が引き起こす可能性がある生物災害、これまで、人類の科学技術の開発が様々な公害、薬害、原子力災害を引き起こしてきた悲惨な体験と同様、生物災害が最も徹底した悲劇として発生する前に、これを食い止めることでした(→そのバイテク・ノート)。

しかし、その目的を達成する前に、私が予感していた生物災害を遥かに上回る人災が発生しました。311福島原発事故です。もしこの事故以前に、原子力発電所に関する原子力工学の研究・開発現場の闇に情報公開という光が投じられていたらこの事故は防げたと確信しています。情報公開制度は、こうした人類の存亡に関わる問題にこそ真っ先に活用される必要があるのです。

他方、実際に裁判をやってきて、被告の担当者や証人として出廷した研究者の言動・姿を見ていて、彼らが彼らなりに必死になっている様子が伝わって来ました。しかし、彼らの必死さは「どんなことがあっても実験ノートを公開してはならない」という彼らが所属する組織の至上命令から来るものです。彼らの思考はそこで停止している。自分たちが取り組んでいる先端科学技術が自分と自分の家庭の外で、この日本、この地球全体にとってどういう意味を持っているのか、そこに思いを及ぼしことがないように思える。そのため、人類の存亡に深刻な影響を及ぼすまでの力業を持つに至った先端科学技術の研究・開発が市民から見えない、当事者だけの世界の闇に閉じ込められ、シビリアンコントロールが効かなくなった時、原発事故のように、それがひとたび暴走した暁には、どんな深刻な事態を引き起こすかも想像をめぐらすことができない。その結果、最大の被害者となるのが私たち普通の市民であることにも、彼ら研究者は真剣に想像をめぐらすことができない。少なくともこの倫理観の欠如が彼ら研究者が思考停止に陥っている最大の理由である。
 この問題の発端となった2005年6月、新潟県上越市の北陸研究センターで遺伝子組換えイネの野外実験の田植えの実施をめぐって、安全性を憂慮する地元住民たちの反対の声に対して片山秀策センター長が述べた次の言葉(→これを報じた新聞記事)はこの実験の研究者たちの心情を率直に吐露したものです。それに対し、私たち市民も素人だからといって手をこまねいているわけにはいかない。
怖いと言って手をこまねいてはいられない。研究者の使命だ

と同時に、このことを深く憂慮するのがやはり同じ立場にいる研究者だ。 今回に限らず、これまで原告の書面作成に、多大な貢献をしてくれた生物学の良心的な研究者の人たちから、今回提出した書面に対し、
《いったいこの国はどうなってしまうのでしょう。》
といった憂慮や以下の感想が寄せられた。彼らの率直な声は、先端科学技術の研究者だけでなく、こうした研究の推進を許してきた私たち市民全員に突きつけられた課題です。

◆それにしても、本件のみならず、最近の我が国の自然科学の危機をひしひしと感じます。単純に言えば、研究者がその結果やプロジェクトの意味を考えることなく、大きなお金に飛びつく。それらは一般に出口が決まっていて、新たな学術領域の開拓にはつながらない。これは諸外国と比較すると例外的に科学技術への国家予算を減らしている、という状況からすると、仕方ない面もないでもないのですが、研究者が自分がやったことに正直になれないとすれば、一体それは誰のためのどんな研究だったのか--。実は我々研究者もそんな状態を招いた責任の一旦を免れることはできないように感じています。

 以下、その提出にあたって、私の感想です。

  *******************

                     10年目の節目を迎えて

 この裁判は、2005年4月、被告が、国策の名の下に、耐性菌問題、交雑問題など様々な安全対策について安全性が確認されていないまま、屋外で遺伝子組換え実験を実施すると発表し、これを知った多くの市民と地元自治体の反対の声に真摯に耳を傾けることもなく、市民に十分納得の行く説明もないまま、5、 遺伝子組換えイネの田植え強行されたことに端を発し、屋外遺伝子組換え実験の中止を求める仮処分裁判の申立がなされた(禁断の科学裁判

 他方、 かねてから情報公開をライフワークとし、わが国の人権保障の歴史にも輝かしい一石を投じたローレンス・レペタさんは(彼の著作「闇を打つ」)、先端科学技術に対する市民のコントロールの重要性という観点からこの事件関心を抱き2007年、耐性菌問題について被告が実施した実験の生データを記録した実験ノートの公開を求めて、開示請求を行ないましたが、被告は「実験ノートは研究者の私物であるから、開示の対象である法人文書に該当しない」として開示を拒否してきました。そのため、レペタさんは、被告のこの処分の取り消しを求めて、この裁判を提訴しました。

  先端科学技術の現場がいかに危ういもので、闇であるかは、福島原発事故私たちの頭に叩き込んでくれました。とはいえ、先端科学技術の現場に身を置いた経験のないレペタさん代理人弁護士にとって、遺伝子組換え技術の実験とその実験ノートの運用の実情を理解し、これを裁判所に伝えることは「言うは易き、行い難し」の至難の技でした。そのため、ずっと、ジグザグの試行錯誤の中を手探りで歩むようなものでしたが、開示請求手続から10年、ようやく私たちはこの問題の核心を掴み、実験ノートの情報公開について、確信をもってあるべき姿を提示することができるのではないかという信念に到達したように思う。かつて、「国敗れて3部あり」名を馳せた行政部の藤山雅行判事、「法律家の仕事は同時代のみならず歴史的な評価にも耐えるものでなければならない」と述べましたが、私たちの心境もこれと同じです。今回提出した2つの書面は歴史の審判、すなわち歴史の中で、様々な人々、市民の批判にさらされ、その無数の関所と試練をくぐり抜けて初めてその真価が明らかにされることを受けて立つ用意のある書面だということです

 しかし、そのような自負に到達した背景には、
先端科学技術の素人である私たちたちをサポートしてくれた数々の良心的な専門家の人たちの大変な努力がある。とりわけ、生物災害の危険性最後まで警鐘を鳴らし続けて、今年4月逝去された恩師生井兵治さん(以下の写真は生前最後の写真。彼の意見書)に、の書面を捧げたい 

                                             (2015.5.23新宿デモ)

追悼 生井兵治:生井は生きている(2017.6.21)

憲法の精神の再定義とチェルノブイリ日本版制定

311福島原発事故のあと、ずっと日本に、チェルノブイリ法日本版の制定が必要だと感じてきた。なぜ、そう思ったのか。当時、それは自明のことに思えた。ただ、事故から6年経過した現在、当時そう思った根底には「それは憲法の精神から導かれる当然の帰結だ」ということに改めて気がついた。

そのことを、2005年当時、川崎市の職員労組の人から、憲法について喋って欲しいと言われたことがあり、なんで私?と聞いたら、昔、私の妹が参加していた「I Love 憲法」というミュージカルについて書いた私の雑文を、知り合いがHPにアップしていたのを読み、相談する気になったと言われました。 
現在、チェルノブイリ法日本版の制定を願っている私が、この雑文を読んだら、やっぱり、「あなたにもこの制定の取り組みに参加してほしい」と呼びかけたくなると思った。この憲法の精神というのは、311福島原発事故のあと、チェルノブイリ法日本版を制定することなんだ、と合点したからです。

     *********************

                       憲法の精神について

 このミュージカルは、「I Love 憲法」という題名ですが、私がここで取り上げたいことは、皆さんは割と簡単に「I Love 憲法」「I Love 憲法」と口にするけれども、しかし、振り返ってみて、憲法を愛するというのは一体どういうことなのでしょうか、ということです。
 というのは、憲法を愛するというけれど、そもそも憲法は目に見えるものなのでしょうか、或いは、手で触ることができるものなのでしょうか。もし六法全書という紙に書いてあると言うのでしたら、それならば、その紙を燃やしてしまえは、憲法はなくなるんじゃないでしょうか。それとも、紙を燃やしてもなお存在するというのであれば、それはどのように存在しているものなのでしょうか。そんなものを手で触ったことがある人はいるのでしょうか。
 要するに、そんな不確かな、訳の分からない代物を、愛するというのは、いったいどういうことなのでしょうか。

 これについて、私がイメージする憲法というのは、例えば次のようなことです。

 少し前に、隣人が亡くなりました。首吊り自殺したのです。その人は、市役所に勤めるごく真面目な普通の人でしたが、上司が収賄罪で捕まり、部下である彼にも嫌疑がかかったのです。しかし、事実無根であり、彼は逮捕されるに至らなかったのですが、回りの嫌疑の目に耐えられなかったらしく、気に病んだ末、とうとう自殺してしまったのです。
 その日、私は、たまたまその様子を一部始終眺めていました。彼の遺体が運ばれていくのを見ていて、その時、なぜか、訳も分からず、激しい感情が体の中から湧き上がってきました--自分が無実であるならば、にもかかわらず、回りが不当にも自分を犯罪人のような目で見、扱うとしたら、それはれっきとした人権侵害ではないか。だったら、その不当な扱いに対して、自分が死ななければならないなんてアベコベじゃないか。「それは絶対おかしい。人権侵害ではないか!」と、相手が受けいれようが受け入れまいが断固と抗議すべきじゃないか。なぜなら、人権を保障する憲法がちゃんとあるんだから。なのに、ここで抗議しなかったら、憲法は死んだも同然じゃないか。

 もうひとつのイメージは、それは私の妹のことです。彼女は、これまで専業主婦でずっと家にいました。しかし、そのうちに、何だかこれはおかしい、いつも家に縛り付けられるのではなく、私にももっと私なりの生き方があってもいいのではないかと思うようになりました。その中で、彼女は、この「I Love 憲法」のミュージカルを見つけました。ここは彼女にとって、新しい生き甲斐の場だったのです。しかし、彼女の夫は、このことを必ずしも歓迎しませんでした。家に、自分の元に置いておきたかったのです。しかし、彼女は、私にも自分なりの生き甲斐を求める権利があると思ったのです。だから、夫の反対を押し切って、それに抵抗して、ここに来たのです。これが憲法なのだと思うのです。憲法では、いかなる個人にも、その人なりの幸福追求権を保障しています。しかし、それは、彼女が、夫の反対に抵抗してこの場に来るという行為を通じて初めて実現されるものなのです。だから、彼女は、この場に来るという行為を通じて憲法を実現し、憲法を愛することを実行している、つまり、「I Love 憲法」そのものを実行しているのです。

 ------------------

 このような意味で、憲法の本質は何かといえば、それは個人の尊厳や平和的生存権や諸々の人権を踏みにじる行為に対して「抵抗する」ことにある。だから、憲法は何処にあるのかといえば、それは、こうした人権侵害行為に抵抗する限りにおいて、それを実行するすべての市民の各自の胸の中にあるのです。だから、それは、決して紙みたいに燃やすこともできなければ、暴力で踏みにじることもできなければ、法律で歪曲することもできないものです、市民ひとりひとりの心がそれを承服しない限り。
 これが「抵抗」をそのエッセンスとする憲法の本質についての解説です。

◆もうひとつ、憲法が他の法律と決定的にちがう(それゆえ、世の中では臭いものとしてフタをされている)本質について、解説します。
 それは、憲法とは、そもそも、市民の人権を守るため国家を規制するためにあるものだということです。これは近代憲法の出自からしてそう言えることです。
 このことを考えるいい問題があります--それは、現題は法律によって市民生活が規律される法治国家と言われながら、なぜ、現実の社会生活において、憲法がかくも無視され、なにか雲の上の抽象的なもののごとく軽ろんじられているのか?その最大の理由は、憲法がもっぱら国家に向って、市民の人権侵害行為をしてはならないと戒めるものだからです。だから、こんな厄介な、煙たい代物はとっとと天井にしまいたいのです。
 こんな徹底した法律は他にありません。商法なら、会社や商人を規制するための法律ですし、民法なら、市民の市民社会での振る舞いを規制する法律です。著作権法なら、個人と法人について、著作権をめぐる権利者と利用者の関係を規制する法律です。ところが、憲法は、ひたすら国家を、国家が市民の人権を侵害しないように、民主主義のルールを守るように、その侵害行為を厳しくチェックするものです。
 だから、他の法律だったら、国家が支配者面をして、市民をコントロールできるのに対し、憲法だけは、国家がもっぱら取締まりの対象になるのです。国家にとって、こんな不愉快な、都合の悪いことはありません。
 だから、例えば、憲法のもとでは、不登校の子供たちは、国に向って、堂々と「我々にきちんとまともな教育を受けさせる権利を保障せい!」と言えるのです。27条に、ちゃんと教育を受ける権利が子供たちに保障されていて、それに対し、国家をこれを実現する義務を負っているからです。しかし、国家は、こんなことを真正面から認めるわけにはいきません。だから、現実では、あらゆる手立てを講じて、不登校児は問題児だ、ケシカラン、といったレッテル貼りをして、彼らに対する人権侵害を素知らぬ顔をし、正当化しようとしているのです。
 では、憲法が、ほかの法律とちがい、国家の人権侵害を規制することを目的とする法律だという性格からどんな特質が導かれるかというと、それは、他の法律なら、それに違反した者に、違反行為を是正し、制裁を加えるために、国家(より正確には国家機関の暴力)に依存すればよかったのですが、しかし、ことが憲法違反となると、そうは簡単にはいきません。なぜなら、ここでは、当の国家自身が違反行為を行なっているから、もはやその国家に依存することは不可能だからです。もちろん形式的には、国家は三権分立という建前を取っていますから、立法機関や行政機関の違反行為を、司法機関が裁くという形を取ることになりますが、しかし、現実には、この3つは3つの頭を持ったひとつの怪物にすぎません。憲法9条などの深刻な憲法違反の問題が裁判に取り上げられるときには、司法機関は、統治行為論といった名目(高度の政治性を持った問題には介入しない)を持ち出して、司法判断を回避し、その回避を通じて、違反行為を行なう国家の現状を追認するのです。
 その意味で、国家による憲法違反を是正する道が、形式的には他の法律と同様、(国家機関の一つである)司法機関による救済が与えられているとしても、それは形式でとどまる場合が多く、そこで、もっと別なやり方を考えざるを得ません。
 それが、冒頭に言った「抵抗」という方法です。
 もともと、憲法の本質が、国家による市民の人権侵害を守るためにあるのだ、 とすれば、それを具体化する道も、市民めいめいの良心の中に、そして、市民 めいめいの「抵抗」という行動にあるのですから、この本質に相応しいやり方 をもっともっと具体化していけばいいと思います。
 このことは、別の言い方をすれば、憲法のエッセンスが、市民めいめいの良心の声に従って、人権侵害に対して「抵抗」することにあるのですから、それは、自ずと、理性をパブリックな目的のために使うことにつながると思います。つまり、それは、内部告発の精神につらなることだと思います。
 そのような意味で、内部告発の運動とは、憲法の理念を具体化する最も貴重な「抵抗」運動の一つだと思いました。

◆最後に、憲法のエッセンスを抵抗権という見地から最も詳細に説いたのは、私が知るところでは、まだ摂津さんがリストアップしていなかった宮沢俊義です。彼の文章は、他の憲法学者にはない明晰で平明な文章です。また、自由主義者として、日本で最も徹底して憲法のことを考えた人だと思います。彼もまた沢山書いていますが、私の知っているのは以下のものです。
 では、体にお大事に。
「憲法II」(有斐閣・法律学全集)←抵抗権について詳しい。
「憲法の原理」(岩波書店)
「全訂日本国憲法」(日本評論社)
「憲法講話」(岩波新書)←9条について、分かりやすい解説がある。

2017年10月19日木曜日

福島県は県民健康調査の甲状腺検査で「経過観察」となった2523人の子どものうち「悪性ないし悪性疑い」が発見された数を速やかに明らかにする責任がある(その1)

福島県は県民健康調査の甲状腺二次検査で「経過観察」となった2523人の子どものうち「悪性ないし悪性疑い」が発見された数を速やかに明らかにする責任がある(その)->こちら
関連記事「184人以外にも未公表の甲状腺がん〜事故当時4歳も」(Ourplanet-TV 2017.3.20)
               「存在していた!福島医科大『甲状腺がんデータベース」(Ourplanet-TV 2017.8.30)


 今年3月末、NPO法人「3・11甲状腺がん子ども基金」の会見(→会見動画)で、福島県は県民健康調査の甲状腺の二次検査()で「経過観察」とされた子ども(単純合計で)2523人は、その後「悪性ないし悪性疑い」が発見されても、その数を公表していなかった事実、つまり
福島県が公表した190人(今年3月末時点)の患者以外にも未公表の患者がいることが明らかになりました。

二次検査:超音波による一次検査でのう胞 20.1mm以上結節 5.1mm以上の判定だった子どもを対象に行なう、詳細な超音波検査、血液検査などの精密検査。

 この事実は、低線量被ばくによる子どもたちの健康被害の危険性を問う「子ども脱被ばく裁判」にとって極めて重要な問題であり、本年5月、原告は被告福島県に対し、速やかに、その数を明らかにするように裁判で主張しました。以下が、その書面です。


 これに対し、本年8月、被告福島県は、『経過観察』中に『悪性ないし悪性疑い』が発見された症例の数は把握していない。
というマークがいくつあっても足りないような回答書を提出しました。->こちら

       ***************

平成26年(行ウ)第8号ほか
原告  原告1-1ほか
被告  国ほか
――いわゆる経過観察問題について――
2017年5月1
福島地方裁判所民事部 御中        
原告ら訴訟代理人   井  戸  謙  一
ほか18名  

目 次
1、問題の所在                            

1、問題の所在
福島県民健康調査の甲状腺検査のスキーム(枠組み)は、次頁の図の通り、一次検査でBまたはC判定の者は二次検査(精密検査)を受けるが、二次検査の結果、治療(手術等)が必要とされない者は「経過観察」とされ、通常の保険診療に移行するとされている。

 
 ところが、本年3月31日、NPO法人「3・11甲状腺がん子ども基金」の会見により次の事実が明らかになった――福島原発事故当時4歳の男児が上記甲状腺検査の二次検査の結果、「経過観察」とされたが、その後、穿刺細胞診で悪性の疑いがあると診断され、昨年、福島県立医大で甲状腺の摘出手術を終えたが、福島県立医大はこれまでに、同大で摘出手術をした事故当時4歳の上記症例を県民健康調査のデータとして公表してこなかった。福島県立医大も同月30日、この事実を認め、ホームページに釈明の文章を掲載した[1]

  しかし、もともと福島県民健康調査の目的は、福島原発事故による放射性物質の拡散等を踏まえ、《県民の健康状態を把握》することであり、その現状把握により《疾病の予防、早期発見、早期治療につなげ、将来にわたる県民の健康の維持、増進を図ること》である(福島県立医大のホームページ「福島県民健康調査とは」)。この目的に照らせば、県民が「経過観察」中であろうとも悪性腫瘍が発見されれば、福島県民健康調査がそれを把握するのは当然である。それをしなければ、小児甲状腺がんに関する県民の健康状態を正確に把握し、正しく評価することは不可能となる。2015年4月まで甲状腺検査を担当していた鈴木眞一教授も、同年2月2日開催の第5回甲状腺評価部会で「経過観察中に悪性腫瘍が発見された場合はどのように扱われるのか」という質問に対して、「そういう症例があれば別枠で報告になる」と回答しており、県民健康調査のデータとして公表することを当然のことと予定していたのである。

  以下、上記甲状腺検査の二次検査で「経過観察」とされ、その後悪性腫瘍が発見された症例が県民健康調査のデータにカウントされない問題が本訴において極めて重大な問題であることを明らかにし、その抜本的な是正を被告福島県に求めるものである。

2、甲状腺検査の二次検査で「経過観察」とされた者の数

 福島県が今年2月20日までに公表した甲状腺検査に関する次頁のデータによると、二次検査で「経過観察」となった者は、1巡目(先行検査)1,260人、2巡目(第1回目本格検査)1,207人、3巡目(第2回目本格検査)56人であり、一部に重複する可能性があるが、とりあえず単純合計で2,523人にのぼる。

最新の福島県「県民健康調査」検討委員会(平成29220日第26)の配布資料によれば、第2回目本格検査で「悪性ないし悪性疑い」の判定となった69人のうち実に63名が先行調査でA判定で「経過観察」とされた者であり、この点も考慮すれば、A判定とは異なり、もともと精密検査の必要があるとして二次検査を実施した者のうちひとまず「経過観察」となった2,523人の中から、上記の事故当時4歳の男児以外にも悪性腫瘍が発見される可能性がどれほどの数にのぼるのか見当がつかない。
                   OurPlanet-TVのホームページより

3、「経過観察」中に悪性腫瘍が発見された症例が県民健康調査のデータにカウントされない問題点

 言うまでもなく、それにより、小児甲状腺がんに関する県民の健康状態を正確に把握し、健康被害と放射能の関係について正しく評価することが困難となる。その結果、被ばくによる健康被害に対する救済を正しく決定することも困難となる。のみならず、本訴において、現在の福島県で子どもたちが生活することの危険性が最大の争点であり、小児甲状腺がん患者の数はこの争点の判断にとって重要な指標であるところ、県民健康調査のデータが正確な数を示していないため、この争点の判断が困難となる。

とりわけ、この問題点の重大性を端的に示したのが、今回明らかになった原発事故当時4歳の男児の症例である。なぜなら、上記NPOの会見によれば、上記男児は2015年に穿刺細胞診で悪性と診断され、昨年前半に福島県立医大で甲状腺の摘出手術を終えた。にもかかわらず、福島県民健康調査「検討委員会」は昨年3月、「中間とりまとめ」を公表し、小児甲状腺がんの多発は「放射線の影響とは考えにくい」とし、その理由のひとつとして、小児甲状腺がんになった「事故当時5歳以下の子どもがいない」ことを挙げた。しかし、現実には「事故当時5歳以下の子どもがいた」のであり、なおかつ「中間とりまとめ」の作成中に福島県立医大はこの事実を知っていた可能性が高い。もしそうだとしたら、「小児甲状腺がんに関する県民の健康状態を正確に把握し、正しく評価することが不可能」という問題は単なる過失では済まされず、それは原告が提訴以来主張している被告福島県の独自の注意義務違反行為として、『福島県民の放射線被害調査とかけ離れた「県民健康管理調査」の実施と情報操作』(訴状44頁以下)の新たな問題に発展する。

4、小括

 以上の通り、甲状腺検査の二次検査の「経過観察」中に悪性腫瘍が発見された症例が県民健康調査のデータにカウントされない甲状腺検査のスキームは、小児甲状腺がんに関する県民の健康状態を正確に把握し、健康被害と放射能の関係について正しく評価することを困難にし、それらに基づいた迅速な被害救済を困難なものにするもので、1で前述した通り、2015年2月当時、甲状腺検査を担当していた鈴木眞一教授の「別枠で報告になる」という回答にも県民健康調査の本来の目的にも反するものであって、断じて許されることではない。
 ちなみに、千葉大の上里達博教授(科学技術史)は、最近の大手日刊紙(平成29年4月21日朝日新聞朝刊)において、「安全と安心」の問題をめぐり、安全は科学的基準だけで決定されるものではないし、電車で人の足を踏んだ者が、謝罪もせずに、その程度の踏まれ方なら怪我はしないと論(科学的)を尽くして説明しても、踏まれた相手は、その者の説明は信用しない(できない)と論じていたが、県民健康調査の今回の問題は、この類のものである。放射線被害についての正確な科学的知見を得るには、また、当該知見が原告らに安全と安心を与えるには、被告福島県における情報の的確な把握と公開が不可欠であり、もし情報公開が不完全であればあるほど、予防原則に基づく危険回避措置の要求は高まらざるを得ない。本訴の的確な審理と判断のためにも、被告福島県は県民健康調査における甲状腺がん発症者の正確なデータの把握に努め、これを公開すべきである。

5、求釈明

 3で前述した通り、本訴において、現在の福島県で子どもたちが生活することの危険性が最大の争点であり、小児甲状腺がん患者の数はこの争点の判断にとって重要な指標である。よって、原告は被告福島県に対し、甲状腺検査の二次検査の「経過観察」中に「悪性ないし悪性疑い」が発見された症例の数を速やかに明らかにすることを求める。
以 上

[1]http://fukushima-mimamori.jp/qanda/thyroid-examination/thyroid-exam-other/000396.html


福島県は県民健康調査の甲状腺検査で「経過観察」となった2523人の子どものうち「悪性ないし悪性疑い」が発見された数を速やかに明らかにする責任がある(その2)

福島県は県民健康調査の甲状腺二次検査で「経過観察」となった2523人の子どものうち「悪性ないし悪性疑い」が発見された数を速やかに明らかにする責任がある(その)->こちら
関連記事184人以外にも未公表の甲状腺がん〜事故当時4歳も」(Ourplanet-TV 2017.3.20)
               「存在していた!福島医科大甲状腺がんデータベース(Ourplanet-TV 2017.8.30)

1、今年3月末、NPO法人「3・11甲状腺がん子ども基金」の会見(→会見動画)で、福島県は県民健康調査の甲状腺検査の二次検査()で「経過観察」とされた子ども(単純合計で)2523人は、その後「悪性ないし悪性疑い」が発見されても、その数を公表していなかった事実、つまり福島県が公表した190人(今年3月末時点)の患者以外にも未公表の患者がいることが明らかになり、本年5月24日、子ども脱被ばく裁判で、この問題取り上げ、被告福島県が未公表の数を明らかにするよう求める書面を提出しました。->こちら
 
二次検査:超音波による一次検査でのう胞 20.1mm以上結節 5.1mm以上の判定だった子どもを対象に行なう、詳細な超音波検査、血液検査などの精密検査(福島県による甲状腺検査の仕組み->こちらを参照)。

2、
この開示の要求に対し、本年8月8日の裁判で、被告福島県は、
『経過観察』中に『悪性ないし悪性疑い』が発見された症例の数は把握していない。

と回答してきました。被告福島県の回答の書面は->こちら

3、
の福島県の回答に対し、8月8日の裁判に先立って開かれた事前協議の場で、原告代理人(柳原)から、
症例の数の把握について、被告福島県はこれを把握する義務があると考えているのか?

 と尋ねたところ、被告福島県の代理人は、 

把握する義務はないと考えている。 
 と回答した
 ところが、そのすぐあとの公開法廷の弁論の場で、原告代理人が再び同じ質問をすると、今度は被告福島県の代理人は、先ほどの回答とは異なり、
把握する義務とは何を根拠とするのか明らかにしてほしい。その上で回答する
回答を留保してきました。

4、この福島県の回答保留の返信に対し、本年10月18日の裁判で、原告より、被告福島県に「症例の数を把握する義務がある」、その根拠を明らかにする書面を提出しました。

その準備の過程で、福島県(正確には福島県立医大)は既に、県民健康調査の甲状腺検査に基づいて、「悪性ないし悪性疑い」が発見された症例のデータベースを作成し、上記の未公表の症例のデータも保存・管理していることを明らかにした報告(白石草さんの「見えない『小児甲状腺がん研究』の実態に迫る」)が、雑誌「科学」本年9月号に掲載されたことを知り、この症例データベースの存在を前提にして、未公表の症例数の公表を被告福島県に求める主張を全面に取り上げました。
以下が、その主張を裁判で陳述した要旨と裁判所に提出した書面です。
 

なお、上記報告書のベースとなった福島県立医大の2つの研究計画書と研究成果報告書
->研究計画書小児甲状腺がんの分子生物学的特性の解明」  
   研究計画書②「若年者甲状腺がん発症関連遺伝子群の同定と発症機序の解明
   研究成果報告書小児甲状腺がんの分子生物学的特性の解明

5、こ原告の提出書面に対し、10月18日の裁判で、被告福島県から、
被告福島県と福島県立医大は別法人なのに、原告の準備書面43は両者の関係が明確でない。 

と指摘が出なされたので、原告1ヶ月以内に、この点を明確にすることを約束。 
要するに、
福島県立医大内でやられていること(症例データベースや組織バンクの作成など)で、どうして別法人の福島県が責任追及されなければならないのか、その理由を明らかにしろ、という質問です。


6、当日の裁判で、被告福島県から提出された書面(->こちら)の以下の主張に関し、原告代理人(井戸)より、

《求釈明の対象を福島県立医大付属病院における症例に限定した場合であっても、被告福島県において本訴訟における求釈明に対する対応として調査し、明らかにする余地はない。》(3頁第5)
この主張の意味が分からない、説明してほしいと求めたところ、 被告福島県の代理人はその問いには答えず、
原告から、福島県と福島県立医大の関係についての主張が出たら、この点も次回までに回答する。
と答えるのみでした。これは、自ら主張しておきながら、その意味を質問されたら、「原告の回答を聞いてから答える」というもので、その無責任な対応には呆れ返るほかない。

     ***************

  陳述した要旨:原告準備書面(43)――いわゆる経過観問題(続き)について――

 本書面は、前々回の裁判で提出した「いわゆる経過観察問題について」の原告準備書面に対し、前回の裁判に、被告福島県から提出された反論書面等に対して、今回、原告からさらに再反論し、再度求釈明を求めたものである。


第1、「悪性ないし悪性疑い」の症例に対する被告福島県の把握の現状について


 雑誌「科学」の本年9月号に掲載の白石草氏の「見えない『小児甲状腺がん研究』の実態に迫る」の論文は、2013年12月頃から、福島県立医大の鈴木眞一教授を研究責任者として、山下俊一長崎大学副学長率いる長崎大学と連携しながら、福島県内の18歳以下の小児甲状腺がん患者の症例データベースを構築し、この小児甲状腺がん患者の手術サンプルとそのサンプルから抽出したゲノムDNAcDNAを長期にわたって保管・管理する「組織バンク」を整備する研究プロジェクトがスタートしたことを2つの研究計画書と研究成果報告書等に基づき明らかにしたものであり、本書面はこの論文で明らかにされた「悪性ないし悪性疑い」の症例に対する被告福島県の把握の現状について述べるものである。

1、本研究プロジェクトの社会的使命

 研究計画書
は、この研究プロジェクトの社会的使命についてこう述べる。
我々が福島県内で発生した小児甲状腺癌の DATA 集積を行い、その分子生物学的特性を明らかにすることは、低線量被ばくの健康への影響の有無を知る上で、きわめて重要な知見となる。こうした患児の長期的な経過観察を行ない、その手術サンプルから、得られる ゲノム DNA等を一元的に保管・管理するシステムの構築し、情報を発信することは我々の社会的な使命と考えている

2、本研究プロジェクトの目的
 その上で、研究計画書はこの研究プロジェクトの2つの目的を次の通り掲げる。
第1は、小児甲状腺腫瘍の組織バンクを構築すること。第2は、小児甲状腺超音波検診で発見される甲状腺癌の分子生物学的特性を明らかにすること。

3、本組織バンクの対象者の選定

 以上の、福島県内で発生した小児甲状腺癌の DATA 集積のために、手術サンプルから得られるゲノム DNA等を一元的に保管・管理するシステムを構築するため、研究計画書は、この組織バンクの対象となる対象者は、第1に福島県立医大に限らず、第2に他の協力施設で手術を行なった甲状腺癌患者のうち同意を得られたものとし、第3に、さらに、もし従来の協力施設以外の施設で甲状腺癌患者の手術が行なわれる場合には、その施設も新たな協力施設として追加申請して当該患者も対象者に含むこととして、福島県立医大が可能な限り、福島県内で発生した全ての小児甲状腺癌のDATA 集積を行なう体制を作ることを明らかにした。

4、一元的に管理する症例データベースの構築

 福島県立医大により、この組織バンクの一元的な管理システムを実現することは、言うまでもなく、18歳以下の甲状腺癌患者の症例データベースも福島県立医大により一元的な管理システムとして構築することを意味する。これが事実であることは、研究成果報告書が《瘍径、年齢、リンパ節転移の有無、病理組織学的所見などの情報を一元的に管理するデータベースを構築した。》(4枚目左段9~15行目)と明らかにしている。

 従って、福島県立医大は、福島県内で発生した18歳以下の甲状腺癌患者の情報を一元的に管理する本症例データベースを構築しており、それゆえ、福島県は、福島県内で発生した18歳以下の甲状腺癌の「悪性ないし悪性疑い」の症例について、福島県立医大のみならず協力施設または協力施設以外の施設で手術した甲状腺癌患者の情報も把握しており、その際、「二次検査では経過観察となり、診療中で甲状腺がんが診断された」場合は除くといった例外を設けておらず、「経過観察」中に「悪性ないし悪性疑い」が発見された症例の数も把握しており、言うまでもなく、これらの《情報を発信することは、研究計画書で宣言した通り、福島県立医大の無条件の社会的な使命である

 
以上より、前回期日における、《被告福島県は、「『経過観察』中に『悪性ないし悪性疑い』が発見された症例の数は把握していない。》という被告福島県の主張は撤回すべきである。


第2、症例数を把握する被告福島県の義務について


 被告福島県は、『経過観察』中に『悪性ないし悪性疑い』が発見された症例数を把握する義務を負うかという論点について、原告は被告福島県には上記症例数を把握する義務があると考える
 
これは、いわゆる不作為による不法行為における作為義務発生の実質的根拠を明らかにすることにより導かれる。この問題を正面から論じた論文が橋本佳幸京大教授「責任法の多元的構造」であり、それによれば、作為義務発生の実質的な理由は次の2点にある。

1、支配領域の基準

 これは例えば、保育所で保育中の乳児が体調不良を起した時、保育所の保育士等の監護者は、自己の支配領域内に存する乳児の身体の侵害に関して、必要な救護・救助措置を講じてこれを阻止する作為義務が発生する場合である

 
福島県の子どもを対象とした甲状腺検査は、甲状腺癌の症例数など低線量被ばくの健康への影響の有無を判断する上できわめて重要な情報を提供するものである。この情報は甲状腺検査を主催する被告福島県が保有しており被告福島県の支配領域内にあるため、第三者の国、他の自治体、民間の医療機関が被告福島県に代わって、この情報を提供し放射能から福島県の子どもらの健康を守ることは不可能である。言うまでもなく、福島県の子どもらとその保護者も自ら、この情報を取得し放射能から子どもらの健康を守ることも不可能である。


従って、第三者や福島県の子どもらに代わって福島県の子どもらの健康を確保するように要請されるのは甲状腺検査を主催し、情報を管理支配する被告福島県である。すなわち被告福島県は放射能により福島県の子どもらの健康が侵害されないように、自己の事実的支配を行使して甲状腺癌の症例数などの情報を福島県の子どもらと保護者に提供すべき作為義務を負うものである。

2、先行行為の基準

 これは例えばそれ自体として危険な物・場所が原因となって他者の身体を侵害する危険性のある事故が発生した場合、当該物・場所の管理者は必要な管理措置(とりわけ監視・隔離措置)を講じて身体への侵害を阻止する作為義務が発生する場合である。


本来、県民健康調査を行なう第一の責任は国にある。なぜなら、国は原子力発電所建設を国策として率先して推進してきた者である以上、福島原発事故の発生に対して被災地住民の保護を引き受ける責任があり、それゆえ、国はこの自己の先行行為に対する責任として、被災地の住民の健康被害に対しても《原因の明らかでない公衆衛生上重大な危害が生じ、又は生じるおそれがある緊急の事態に対処すること》(厚生労働省設置法4条1項4号)を職務とする厚生労働省が実施主体となって県民健康調査を行なうという作為義務があるのは当然であり、さらに、県民健康調査の中で判明した情報を福島県の子どもらと保護者に提供すべき作為義務を負うのも当然である。

 それゆえ、現在、被告福島県が実施中の県民健康調査は、福島県内で発生した原発事故に対して「住民の福祉の増進を図る」(地方自治法1条の2第1項)ことを存立の基本とし、なおかつ福島第一原子力発電所の建設に同意した福島県がその責任を果すために実施しているものであるが、同時に、この県民健康調査は、先行行為に基づき県民健康調査を行なう作為義務を負う国からの委託に基づいて被告福島県により実施されているという性格も併せ持つものである。

 そうだとすれば、被告福島県は、福島県の子どもらと保護者に提供すべき作為義務を負う国からの委託に基づいて、県民健康調査の中で判明した甲状腺癌の症例数などの情報を提供すべき作為義務を果す必要があるのは当然である。この義務はまた、福島原発事故に対して法律的にも、また大人と異なり道義的にも一点の責任もない福島県の子どもたちが、原発事故発生に対して、己の生命、身体が侵害されないように、侵害防止に必要な情報を原発事故発生をもたらした者たち(東京電力株式会社、国、福島県など)に対し提供を求める権利、すなわち知る権利を有していることに対応する当然の責務である。

 以上より、被告福島県に、「経過観察」となった2523人の子どものうち「悪性ないし悪性疑い」が発見された症例数を把握する義務があることが明らかであり、すみやかにこの義務を果すべきである。 
以 上        

      ***************

平成26年(行ウ)第8号ほか

原告  原告1-1ほか

被告  国ほか

準備書面()

――いわゆる経過観察問題(続き)について――

2017年10 6

福島地方裁判所民事部 御中        



原告ら訴訟代理人   柳 原  敏 夫
ほか18名  
本書面は、原告準備書面(33)――いわゆる経過観察問題について――に対する被告福島県の回答である準備書面(10)及び前回期日のやり取りを踏まえた原告主張及び再度の求釈明である。
目 次

 本年9月1日発売の雑誌「科学」9月号掲載の白石草「見えない『小児甲状腺がん研究』の実態に迫る」(甲C72。以下、本論考という)は、被告福島県の甲状腺検査がスタートして2年経過した2013年12月頃から、福島県立医大甲状腺内分泌学講座の主任教授鈴木眞一を研究責任者として、山下俊一長崎大学副学長率いる長崎大学と連携しながら、福島県内の18歳以下の小児甲状腺がん患者の症例データベースを構築し、同がん患者の手術サンプル及び同サンプルから抽出したゲノムDNAcDNAを長期にわたって保管・管理する「組織バンク」を整備する研究プロジェクト(以下、本研究プロジェクトという)がスタートしたことを本研究プロジェクトを記載した2つの研究計画書[1](甲C73~74)や研究成果報告書[2](甲C75)等に基づき、明らかにした。
 以下、本論考で明らかにされた「悪性ないし悪性疑い」の症例に対する被告福島県の把握の現状について述べる。

2、本研究プロジェクトの社会的使命、目的及び対象者の選定
(1)
、本研究プロジェクトの社会的使命

 研究計画書(甲C73の2。以下、本研究計画書という)によると、本研究プロジェクトの社会的使命について次のように述べている。
《我々が福島県内で発生した小児甲状腺癌の DATA 集積を行い、その分子生物学的特性を明らかにすることは、低線量被ばくの健康への影響の有無を知る上で、きわめて重要な知見となる。こうした患児の長期的な経過観察を行ない、その手術サンプルから、得られる genomic DNA および cDNA 等を一元的に保管・管理するシステムの構築し、情報を発信することは我々の社会的な使命と考えている》(5頁「7 研究の背景及び目的」18~22行目)。

(2)、本研究プロジェクトの目的
その上で、本研究計画書は本研究プロジェクトの2つの目的を次の通り掲げる。
《本研究では、小児甲状腺腫瘍の組織バンクを構築する。小児甲状腺超音波検診で発見される甲状腺癌の分子生物学的特性を明らかにすることを目的とする。》(同上23~24行目)
 この2つの目的について、研究成果報告書(甲C75。以下、本研究成果報告書という)では、次のように報告されている。
《本研究では、①小児甲状腺腫瘍の組織バンクを構築する。小児甲状腺超音波健診で発見される甲状腺癌の分子生物学的特性を明らかにすることを目的とする。
①手術標本の管理保存体制の確立
甲状腺超音波健診を中心とした、福島県内の小児に対する健康管理調査は、長期にわたって継続されるものである。したがって、今後、発見される可能性のある小児甲状腺癌の手術標本から、genomic DNA, cDNA, 新鮮凍結標本を保管・管理することは、必要不可欠である。
②遺伝子変異の解析
(以下、略)‥‥  》(2枚目右段下から9行目~3枚目右段1行目)

 以上の記述から明らかなことは、未曾有の原発事故による未曾有の健康被害の発生という重要課題に直面して、福島県立医大の鈴木眞一教授らは《我々が福島県内で発生した小児甲状腺癌の DATA 集積を行い、その分子生物学的特性を明らかにすることは、低線量被ばくの健康への影響の有無を知る上で、きわめて重要な知見となる》という自覚に立ち、そのDATA 集積のためには《手術サンプルから、得られる genomic DNA および cDNA 等を一元的に保管・管理するシステムを構築し、情報を発信することは我々の社会的な使命と考えている》(下線は原告代理人)と、福島県立医大が一元的に保管・管理する「組織バンク」(以下、本組織バンクという)を構築すると明確に述べている点である。

(3)、本組織バンクの対象者の選定
 以上の目的に沿って、本研究計画書は、本組織バンクの対象となる「対象者の選定」について、次のように言う。
《研究期間内に当施設および協力施設に受診・入院した手術適応となる18歳以下の甲状腺癌患者のうち、研究参加の同意が得られたもの。‥‥協力病院については、対象者が発生した際に、計画変更申請にて、別個に追加する。》(下線は原告代理人。5頁「8 対象者の選定」25~29行目)
 すなわち、福島県内で発生した小児甲状腺癌の DATA 集積のためには福島県立医大が一元的に保管・管理するシステムを構築する必要があり、この一元的な管理システムを実現するために、本組織バンクの対象となる対象者は、当施設すなわち福島県立医大に限らず協力施設で手術を行なった甲状腺癌患者のうち同意を得られたものとし、さらに、もし従来の協力施設以外の施設で甲状腺癌患者の手術が行なわれる場合には、当該施設を新たな協力施設として追加申請して当該患者も対象者に含むこととして、福島県立医大が可能な限り、福島県内で発生した全ての小児甲状腺癌のDATA 集積を行なう体制を作ることとした。

(4)、一元的に管理する症例データベースの構築
 福島県立医大による本組織バンクの一元的な管理システムの実現は、言うまでもなく、18歳以下の甲状腺癌患者の症例データベースも福島県立医大により一元的な管理システムとして構築することを意味する。この点、本研究成果報告書は次のように明らかにしている。
《4.研究成果
①症例データベースの構築
2016 3 31 日現在、福島県立医科大学附属病院で手術を施行した症例は、128 例であった。腫瘍径、年齢、リンパ節転移の有無、病理組織学的所見などの情報を一元的に管理するデータベースを構築した。》(下線は原告代理人。以下、福島県立医大が一元的に管理する症例データベースを本症例データベースという。4枚目左段9~15行目)
 従って、本症例データベースに登録された全ての「悪性ないし悪性疑い」の症例数を公表することは、福島県立医大にとって言うまでもなく《情報を発信することは我々の社会的な使命》(甲C73本研究計画書5頁「7 研究の背景及び目的」21~22行目)の一環である。
 ここで注意すべきことは次の2つである。
1点目は、本症例データベースは、本組織バンクと異なり、《甲状腺癌患者のうち、研究参加の同意が得られたもの》という限定が付されていないことである。すわなち、本研究参加の同意の有無に関わらず、福島県内で発生した18歳以下の甲状腺癌患者は全てデータベース登録の対象とされる。従って、前記(3)で述べた通り、本組織バンクの対象者の選定は福島県立医大に限らず協力施設または協力施設以外の施設で手術した甲状腺癌患者全てを対象としたものであるから、これらの者の症例情報が全て本症例データベースに登録されることとなる。その際、甲状腺癌患者の同意なしに彼らの症例情報を本症例データベースに登録できるかという問題が発生するが、この問題は改めて論ずるとして、前記(1)に掲げた社会的使命を達成するためには、すなわち原発事故による健康被害の影響の有無を長期間にわたり注意深く検討していくためには、チェルノブイリ原発事故後に、ウクライナ、ベラルーシ、ロシア周辺3国で、原発事故の被災者のデータを全て登録し、一元的に管理するデータベースが作られてきたように[3]、福島原発事故においても一元的に管理された本症例データベースの構築は必要不可欠である。
2点目は、一元的に管理する症例データベースの構築にあたって、「二次検査では経過観察となり、診療中で甲状腺がんが診断された」場合の症例は除くといった例外を設けていないことである。福島県立医大のスタンスは、上記の通り、もし従来の協力施設以外の施設で甲状腺癌患者の手術が行なわれることが判明した場合には、当該施設を新たな協力施設として追加申請して当該患者を対象者に加えるというもので、一元的に管理する本症例データベースの構築をめざす以上、当然のことである。

3、小括

  以上の通り、福島県立医大は、福島県内で発生した18歳以下の甲状腺癌患者の情報を一元的に管理する本症例データベースを構築しており、従って、福島県は、福島県内で発生した18歳以下の甲状腺癌の「悪性ないし悪性疑い」の症例について、福島県立医大のみならず協力施設または協力施設以外の施設で手術した甲状腺癌患者の情報も把握しており、その際、「二次検査では経過観察となり、診療中で甲状腺がんが診断された」場合は除くといった例外を設けておらず、「経過観察」中に「悪性ないし悪性疑い」が発見された症例の数も把握しており、言うまでもなく、これらの《情報を発信することは我々の社会的な使命》(本研究計画書5頁「7 研究の背景及び目的」21~22行目)である。
以上から明らかな通り、被告福島県の準備書面(10)の《被告福島県は、「『経過観察』中に『悪性ないし悪性疑い』が発見された症例の数は把握していない。》という主張は撤回すべきである。

第2、症例数を把握する義務の有無について

1、はじめに

  前回期日において、原告から被告福島県に対して「被告福島県は、『経過観察』中に『悪性ないし悪性疑い』が発見された症例数を把握する義務を負うのか」と問うたのに対して、(進行協議期日において、いったん「そのような義務はない」と答弁したものの、すぐあとの)口頭弁論期日において、「いかなる意味で義務を負うということなのか、明らかにされたい」と回答を保留した。
 よって、原告より、以下の通り、被告福島県には上記症例数を把握する義務があることを明らかにする。

2、本件は規制権限の不行使の事例ではないこと
 まず、被告福島県が「経過観察」中に「悪性ないし悪性疑い」が発見された症例数を把握しないことは国家賠償法1条または民法709条の適用事例に該当する可能性がある。なぜなら、当該症例数を把握し、速やかに公表することにより、低線量被ばくの健康への影響に対する重要な知見を県民に提供し、無用な被ばくを避けて健康被害の悪化の防止という救済が可能になるのにそれを放置し、県民に健康被害の悪化という危害を加えたとされる可能性があるからである。
 とは言っても、本件はいわゆる公権力の「規制権限の不行使」の事例とは異なる。なぜなら、「規制権限の不行使」の事例とは例えば電力会社といった民間による被害発生の防止のため国家に対し規制が求められる場合に、その規制権限の不作為を理由とする国家賠償事件であるのに対し、本件はそのような民間による被害発生は存在せず、もっぱら公権力による被害発生だけが問題になるからである。従って、本件において裁量論や「権限の不行使が著しく不合理」といった議論は問題にならない。

3、民法の不作為不法行為の基本構造
  次に、国家賠償法の位置づけについて、民法不法行為法の特則という見解と民法不法行為法とは別の損害賠償制度という見解があるが、いずれの見解でも「国家賠償制度と民法不法行為法の制度とはその基本構造において類似する」と考える点で共通する。従って、以下では、民法の不作為不法行為の基本構造を手がかりにして、本件の不作為の基本構造を分析する。その際、分析の手引きとした論文が、不作為不法行為の基本構造に正面から本格的に取り組んだ橋本佳幸京大教授「責任法の多元的構造不作為不法行為・危険責任をめぐって」(2006年。以下、橋本論文という)である。

4、不作為不法行為の作為義務発生の根拠

(1)、作為義務発生の形式的根拠(法源)
 通常、不作為不法行為の作為義務発生の根拠として、法令、契約、条理慣習が挙げられる。しかし、これらはいわゆる形式的根拠(法源)であって、これだけでは、具体的な事例において、果して作為義務が発生するのか否かの判断を導き出すことはできない。そのためには、さらに、作為義務発生の実質的根拠を明らかにする必要がある。以下、これについて検討する。

(2)
、作為義務発生の実質的根拠
 作為義務発生の実質的根拠について、橋本論文によれば、基本的な出発点として《何らかの原因から法益侵害に向かう因果系列の関する作為義務の負担・ひいては不作為責任にリスクは、当該因果系列と不作為者との関係、すなわち両者の「近さ」の観点から割り当てるべきもの[4]》(橋本論文28頁)と考えることができる。
 そこで次に、この「近さ」を類型化する必要があるが、この点、ドイツの学説で検討されている不作為不法行為の類型化を参考にすれば、次のように、《この「近さ」の判断に関しては、()支配領域、()先行行為の観点を基準とすべきであろう》(橋本論文28頁)。すわなち、
①.支配領域の基準
 支配領域の基準とは、何らかの原因から法益侵害に向かう因果系列が存在する場合、当該法益が事実上、特定の者の支配領域内に存するときには、当該因果系列に介入すべき作為義務をこの者に割り当てるというものである。例えば、保育所で保育中の乳児が体調不良を起した時、保育所の保育士等の監護者は、自己の支配領域内に存する乳児の身体の侵害に関して、必要な救護・救助措置を講じてこれを阻止する作為義務が発生する。或いは、夏山合宿に参加中の高校生の山岳部員が体調不良を起した時、引率した教諭ら管理者は、自己の支配領域内に存する生徒の身体の侵害に関して、必要な救護・救助措置を講じてこれを阻止する作為義務が発生する。
 この場合、生命・身体など他人の法益を自己の事実上の支配領域内に有する者(以下、領域主体という)は、一方で当該支配領域に関して第三者による干渉を排除していて、第三者が当該支配領域に入り込んで当該法益の侵害を阻止することは不可能であり、他方で、当該支配領域にあるため、当該法益の主体自身(以下、法益主体という)によって当該法益の侵害を阻止することも制約されているから、それゆえ、領域主体は、おのれの支配地域内の他人の法益を、第三者や法益主体に代わってその安全を確保するように要請される、すなわち他人の法益が侵害されないように、自己の事実的支配を行使して当該法益を侵害から保護すべき作為義務を負うからである。

②.先行行為の基準
 先行行為の基準とは、特定の者が自らの行為(先行行為)によって直接に当該行為から法益侵害に向かう因果系列を設定したときには、後の段階で当該因果系列に介入すべき作為義務をこの者に割り当てるというものである。例えば、それ自体として危険な物・場所が原因となって他者の身体を侵害する危険性のある事故が発生した場合、当該物・場所の管理者は必要な管理措置(とりわけ監視・隔離措置)を講じて身体への侵害を阻止する作為義務が発生する。
 この場合、先行行為者は、いわば自己の先行行為に対する責任として、自己の先行行為から他人の法益の侵害に向かう因果系列について、他人の法益の安全のための作為義務を負わねばならないからである。
 この先行行為の基準が実際上意味を持つのは、先行行為それ自体について作為不法行為責任を肯定することができない場合(つまり行為義務違反または有責性を欠く場合)であっても作為義務として取り上げることができる点にある。

(3)
、本件への適用
 本件において、県民健康調査の甲状腺検査(以下、本甲状腺検査という)の対象は原発事故当時福島県内に住む約38万人の18歳以下の子ども全員(以下、本件子どもらという)であり、チェルノブイリ原発事故の教訓に基づき、放射能に対する感受性が高い彼らは低線量被ばくによる健康被害の危険性が最も高いとして甲状腺検査の対象とされたものである。
①.支配領域の基準
 本件子どもらを対象とした本甲状腺検査は、甲状腺癌の症例数など低線量被ばくの健康への影響の有無を判断する上できわめて重要な情報(以下、本情報という)を提供するものである。本情報は本甲状腺検査を主催する被告福島県が保有しており被告福島県の支配領域内にあるため、第三者の国、他の自治体、民間の医療機関が被告福島県に代わって、本情報を提供し放射能から本件子どもらの健康を守ることは不可能である[5]。言うまでもなく、本件子どもらとその保護者も自ら、本情報を取得し放射能から本件子どもらの健康を守ることは不可能である。従って、第三者や法益主体である本件子どもらに代わって本件子どもらの健康を確保するように要請されるのは被告福島県であり、すなわち被告福島県は放射能により本件子どもらの健康が侵害されないように、自己の事実的支配を行使して甲状腺癌の症例数などの本情報を本件子どもらと保護者に提供すべき作為義務を負う。その際、本情報提供にあたって、「二次検査では経過観察となり、診療中で甲状腺がんが診断された」場合の症例数を除外することを正当化するに足りるだけの合理的な理由は存在しない。
②.先行行為の基準
 本来、県民健康調査を行なう第一の責任は国にある。なぜなら、国は原子力発電所建設を国策として率先して推進してきた者である以上、福島原発事故の発生に対して被災地住民の保護を引き受ける責任があり、それゆえ、国はこの自己の先行行為に対する責任として、被災地の住民の健康被害に対しても《原因の明らかでない公衆衛生上重大な危害が生じ、又は生じるおそれがある緊急の事態への対処に関すること》(厚生労働省設置法4条1項4号)を所掌事務とする厚生労働省が実施主体となって県民健康調査を行なうという作為義務があるのは当然であり、さらに、県民健康調査の中で判明した本情報を本件子どもらと保護者に提供すべき作為義務を負うのも当然である。
 それゆえ、現在、被告福島県が実施中の県民健康調査は、福島県内で発生した原発事故に対して「住民の福祉の増進を図る」(地方自治法1条の2第1項)ことを存立の基本とし、なおかつ福島第一原子力発電所の建設に同意した福島県がその責任を果すために実施しているものであるが、同時に、県民健康調査は、上記の通り、先行行為に基づき県民健康調査を行なう作為義務を負う国からの委託に基づいて被告福島県により実施されているものである。
そうだとすれば、被告福島県は、県民健康調査の中で判明した甲状腺癌の症例数などの本情報を本件子どもらと保護者に提供すべき作為義務を負う国からの委託に基づいて、本情報を提供すべき作為義務を果す必要がある。この場合でも、本情報提供にあたって、「二次検査では経過観察となり、診療中で甲状腺がんが診断された」場合の症例数を除外することを正当化するに足りるだけの合理的な理由は存在しないのは言うまでもない。

5、本件子どもらの知る権利に対応した国らの情報提供義務

 以上が、橋本論文を手引きとした本件における作為義務発生の根拠の検討であるが、なお重要な問題が抜けている。それは、本件子どもらに保障された「知る権利」の実現である。言うまでもなく、本件子どもらは己の生命、身体を侵害されないという人格権を有するばかりか、福島原発事故の発生に対して、己の生命、身体が侵害されないように、侵害防止に必要な情報を原発事故発生をもたらした者たち(東京電力株式会社、国、福島県など)に対し提供を求める権利、すなわち知る権利を有している。そもそも本件子どもらは福島第一原子力発電所の建設に対して法律的にも、また(成人の福島県民と異なり)道義的にも一点の責任もない。彼らは百%いわれのない理由で原発事故による健康被害の危険性という不安の中に陥れられたのであり、彼らを放射能による健康被害から救済するために必要なあらゆる情報を彼らに提供することは、無条件に、本件子どもらに保障された「知る権利」であり、情報を保有する国、福島県らに課された無条件の義務である。

6、小括

以上の通り、本件では、作為義務を実質的に根拠付ける「支配領域の基準」によっても、また「先行行為の基準」によっても、被告福島県が県民健康調査の中で判明した甲状腺癌の症例数などの本情報を本件子どもらと保護者に提供すべき作為義務を負うことは明らかであり、その際、「二次検査では経過観察となり、診療中で甲状腺がんが診断された」場合の症例数を除外することを正当化するに足りるだけの合理的な理由は存在しないことも明らかである。
 そうだとすれば、被告福島県が甲状腺癌の症例数などの本情報を提供するという作為義務を負う以上、その前提として、被告福島県に、「経過観察」中に「悪性ないし悪性疑い」が発見された症例数を把握する義務があることは明らかである。尤も、前記第1で明らかにした通り、現状では、被告福島県は4年前から本症例データベースを構築しており、前記症例数も本症例データベースに登録済みであり、前記症例数を把握するという義務はしっかり履行している。被告福島が履行していないのは、把握しているにも関わらず前記症例数を本件子どもらに提供することである。

第3、求釈明

 以上を踏まえて、改めて、被告福島県に対し、次の事実について明らかにするよう求める。
①.直近の時点で、「経過観察」中に「悪性ないし悪性疑い」が発見された症例の総数。
②.本研究計画書(甲C73の2)5頁「8 対象者の選定」の「協力施設」及び「協力病院」について
 (1).協力施設の全ての名称
 (2)、直近の時点で、協力施設から連絡のあった手術適応となる18歳以下の
 甲状腺癌患者の各協力施設ごとの総数。
 (3)、別個に追加した協力病院の全ての名称
 (4)、直近の時点で、協力病院から連絡のあった手術適応となる18歳以下の
 甲状腺癌患者の各協力病院ごとの総数。
③.本研究計画書2頁「4 データベースへの登録の必要性」で、「不要」を選択した理由。
以 上


[1] 研究課題名は「小児甲状腺がんの分子生物学的特性の解明」(C73)、「若年者甲状腺がん発症関連遺伝子群の同定と発症機序の解明」(C74
[2]研究課題名は「小児甲状腺がんの分子生物学的特性の解明」(C75
[3] ウクライナではウクライナ国立記録センターで、チェルノブイリ事故被災者236万人のデータがデータベースに登録され、一元的に管理されている。その様子は20139月23日放送のNHK・ETV特集「シリーズ チェルノブイリ原発事故・汚染地帯からの報告「第2回ウクライナは訴える」で紹介された。
[4] この「近さ」に着眼する見解は、1980年代から刑法学で有力に主張されてきたものである。その例として、西田典之「不作為犯論」(1988年)、佐伯仁志「保障人的地位の発生根拠について」(1996年)。
[5] 実際上、2012年1月16日、当時、「県民健康管理調査」検討委員会座長の山下俊一福島県立医大副学長と鈴木眞一福島県立医大教授は、日本甲状腺学会会員宛に、本甲状腺検査を受けた福島県の子どもたちのうち5mm以下の結節や20mm以下ののう胞が見っかった者の親子たちが、セカンドオピニオンを求めに来ても応じないように求める文書(甲C76)を出し、福島県による排他的、一元的な甲状腺検査体制の確立を図った。