2017年12月11日月曜日

努力しない限り絶望できない:人権侵害裁判を起こし、最終局面で「人権侵害は終わってる、彼らは自ら無意識に人権を放棄しているからだ」と悟った男(2017.12.10)

 2日前に、ひとつの裁判の最終の書面を完成、提出しました-->東京大学の不正な教授人事による学問の自由侵害事件の最新報告(2017.12.8)

この裁判の原告は前回期日で、彼の本人尋問が実施され、「東京大学の不正な教授人事」の真実について思いの丈を吐いた、もうこれ以上言うことはないという感じでした。

しかし、それから2ヵ月後、彼は突然
「これが言いたかった。これで、なんで自分がこの裁判を起こしたのか、その訳が初めて分かった」と言い出し、変身を遂げました。
それまで、彼はブスブスと大いなる不満を抱きながら、その正体が掴めず、霧の中で夢を見ているようだったのが、目からウロコで、明確な認識と確信を持つコペルニクス的転回を遂げたのです。

何が彼を変身させたのか、以下、その変身の顛末です。

前回までの裁判で、あと1つ論点が残っていました。それが「東京大学の不正な教授人事」の結果、原告の学問の自由がどのようにして侵害されたのかを解明することでした。とはいえ、既に数回、これについて主張済みなので、正直、今さら屋上屋を重ねるだけと乗り気がしない気分でした。

とはいえ、唯一、抽象的な疑問が未解決のままだったので、その小さな穴をふさぐために文献を漁っているうちに、思いがけない展開となり、今まで何も議論していなかったではないかと思えるくらい、根本的にやり直しの議論を展開する羽目となりました。

その穴とは次のことを問うたのです--憲法には学問の自由を保障すると書いてあるが、ではいったい、現実にどのような社会的条件のもとで、この学問の自由を問題にしているのか。そして、その社会的条件のもとで、いかなる社会的形態を取ることによって、学問の自由が実現されるのか、これを具体的に明らかにすることでした。

ところが、この素朴な問いに正面から答えている憲法の文献は意外にないのです。しかし、幸いなことに、学問の自由についてはそれが見つかりました。高柳信一「学問の自由」。

少し長くなるのを承知で、さわりの部分だけ紹介すると、

1、現代憲法(日本国憲法等)において「学問の自由」が登場した理由 明治憲法には 表現の自由を保障したが、「学問の自由」は保障しなかった。日本国憲法で初めて「学問の自由」の保障が登場した。なぜ、新憲法で初めて登場したのか。
 また、これはこう言い換えることができる--日本国憲法は思想および良心の自由や表現の自由など一般的な市民的自由を保障しており、本来なら、研究の自由はこれらの保障で足りる筈である。それなのになぜ、その上に「学問の自由」を保障したのか。
それは以下の通り、学問研究をめぐる研究者の環境が変化したからである。

2、学問研究をめぐる研究者の環境の変化 研究者といえどもまず生きていかなければならない。論理的には人間としてまず生きる条件が満たされて、次に研究することができる。そこで、サラリーマンとして商店主としてまたは農民として生きる糧を得て、その余暇に、余力をもって学問研究を行う場合がある。このような研究に対して、思想および良心の自由や表現の自由などの一般的な市民的自由(以下、この意味で「市民的自由」と呼ぶ)が保障されるのは当然である。しかし、近代社会の進展の中で、研究対象がますます複雑化し、研究方法がいよいよ精緻化するにつれ、こうした余技としての研究は例外的となり、それに代わり、学問研究の主要な地位を占めたのが、余技としてではなく、生活の糧も学問研究の場も同時に得る雇用された研究者たちの職業としての研究である。彼らは、大学に代表される教育研究機関に雇用され、生活の糧を与えられながら、同時に、教育研究機関において学問研究に専念したのである(以下、この職業的研究者を「教員研究者」と呼ぶ)。

 この雇用関係の結果、本来であれば、教員研究者が教育研究機関において学問研究に従事するにあたっては、彼らに対し、教育研究機関が雇主として有する諸権能(業務命令権、懲戒権、解雇権[1]等)を行使することが認められる。しかし、学問研究とは本来、これに従事する研究者が自らの高められた専門的能力と知的誠実性をもって、ただ事実に基づき理性に導かれて、この意味において自主的にこれを行うほかないものである。そこで、もしこのような本質を有する学問研究に対し上記諸権能の行使がそのまま認められたのでは、教員研究者の教育研究機関における学問研究の自主性が損なわれるのは必至である。なぜなら、雇主は使用人である教員研究者の研究態度や研究内容が気に入らなければ、雇主の権限を用いて使用人を簡単に解雇することが出来、或いは使用人の研究内容や方法についてあれこれ指示を出すことも出来、雇主の指揮命令下にある使用人である教員研究者はこれらの措置に従わざるを得ないからである。雇主のこれらの措置の結果、結局において、教員研究者の教育研究機関における学問研究の自由は存在の余地がなくなる。

3、学問研究をめぐる研究者の新しい環境に対応した新しい人権の登場 以上より、仕事の余技として学問研究を行うのではなく、教育研究機関に雇われて当該機関で使用人としての立場で学問研究を行うという「新しい環境」(その環境は偶然のものではなく、近代資本制社会において構造的に必然のものとして出現している)の下では、教員研究者に、単に個人として一般的な市民的自由を保障しただけでは、彼らの主要な学問研究の拠点である教育研究機関内部において学問研究の自由を保障したことにはならない。教育研究機関の内部においては、教員研究者は雇用における指揮命令の関係によって、一般的な市民的自由は既に失われているからである。

 そこで、教育研究機関の内部においても、教員研究者に既に失われた市民的自由を回復し、もって教員研究者の学問研究の自由を保障するために、新しい皮袋=新しい人権を用意する必要がある。それが「学問の自由」が登場した所以である[2]。すなわち19世紀後半以降、新しい人権として「学問の自由」が意識され、その保障が要求されるようになり、遂にその保障が実現されるに至ったのである。この意味で、教育研究機関の内部で一般的な市民的自由の回復をはかる「学問の自由」は市民的自由と同質的なもので、従ってそれは学者(教授)という身分に伴う特権ではなく、教育研究機関における真理探究という終わりのない過程ないし機能そのものを保障する「機能的自由」であり、それは学問的な対話・コミュニケーションであるからそのプロセスに参加するすべての者に保障されるものである(高柳「学問の自由」36~41頁。61~65頁)。

                                       (以上、原告準備書面(8)

 私たちが置かれている学問研究をめぐる社会的条件とは一言で言って「研究手段から切り離されていた研究者が、雇用契約を締結して、研究手段を保有する研究教育機関の内部で学問研究を行う」ことです。この社会的条件のもとでは、教育研究機関が雇主として有する諸権能(業務命令権、懲戒権、解雇権等)を行使することにより、学問の自由は有名無実化する。つまり、思想および良心の自由や表現の自由などの一般的な市民的自由ではこの社会的条件のもとでは学問の自由は死滅する。だから、新しい皮袋を用意して、「学問の自由」を保障する必要があったのです。

高柳のこの指摘を読み、とりわけ以下の記述に対し、原告の彼は感動を抑え切れなかったそうです。

教員研究者は、思想を表明することを専門職能上の業務としており、職責上思想を表明しない自由をもたない。しかも、彼らは、みずから職能遂行上の手段をもち、依頼者と直接個人的に接する他の専門職能とことなり、研究手段からきりはなされており、大学設置者に雇われることにより始めて研究手段に接近し、また役務の受け手(それは集団化されているという特色をもつ)に接することができる。教員研究者が真理と信じることを表明することによって、研究手段を奪われることを、市民的自由行使に対するしっぺ返しとして容認することは、かれらの専門職能遂行を不可能ならしめることである。》

原告の彼は、2009年の東京大学の不正な教授人事に対し、当時からずっと、直感的にこれが学問の自由の侵害だと確信して疑わなかったけれど、なぜ、これが学問の自由の侵害なのか、その根拠を明確には理解していなかった。しかし、先日、高柳理論を読み、自分の学問の自由がいかにして侵害されたのか、さながら高柳から次の呟きが発せられるかのように、その根拠を全幅の確信をもって理解したのです。
「きみたちはいま、実にひどい環境で真理探究をしていますよ!」

と同時に、自分の周りの研究者が、自分と同様、このひどい研究環境の中に置かれていて、事実上、己の信ずる真理探究の自由が阻害され、妨害されているにも関わらず、これを「学問の自由の侵害だ」と声を上げることもしない現状を、
「彼らは人権侵害の前に、自ら学問の自由を無意識のうちに放棄しているか、返上している。だから、いくら侵害されても侵害と思わなくなっている。彼らはいまや絶望すらしなくなった」
と、苦々しい調子で吐きました。

これに対し、彼は絶望した、というより絶望できた。
それが可能だったのは、2009年の不正な教授人事以来、2回、裁判を起こして、真実と正義とは何かを求め続けてきたからです。その思考の努力をしなかったら、彼もまた思考停止したほかの研究者と同様、絶望もできなかったはずです。

そして、彼が思考の努力の末、絶望の中で掴み取った「学問の自由の社会的条件とそれが保障されるために必要な社会的形態」という認識は、彼の人生にとって転機となるような重要なものでした。事実、彼はこの絶望のあと、ものすごく元気になったからです。

昨夏、カナダ・モントリオールで開かれた世界社会フォーラムに参加した福島の自主避難者のお母さんは、このフォーラムで人生の転機となるような体験をしたと帰国後、ことあるたびに語ってくれました。それは、世界中から集まった参加者からこう言われたというのです--まず、あなたが声をあげるのよ。そしたら、私たちも出来る限り応援するから、と。

福島原発事故のあと、被害者の人たちは人間としてまっとうな救済を受けていない。これは紛れもない人権侵害ではないか--この過酷な状況を正面から認識し、これを声にあげること。それがたとえどんなに絶望を伴うほどの苦しみの声であろうとも、それを聴いた人は、初めて、それが人権侵害であると認識でき、そこから「そんなことはおかしいんじゃないの」と「人々の偉大な感情力」を引き出す行動が起きるのです。

しかし、 人権侵害をされた被害者本人が、侵害した事実を自ら沈黙し、葬り去ったとき、外の人たちは、何もなかったとしか思わず、そこから「そんなことはおかしいんじゃないの」も、何の行動も起きません。その最悪のケースが、原告の彼の回りの研究者を覆っている次の事態です。

「人権侵害の前に、自ら学問の自由を無意識のうちに放棄しているか、返上している。だから、いくら侵害されても侵害と思わなくなっている。おとなしくなった彼らはいまや絶望すらしなくなった」
このような思考停止はモラルの崩壊に至る。

この最悪の工程を阻止するためにも、「私たちは避難の権利を侵害されている」と堂々と言えるチェルノブイリ法日本版の制定が必要です。

だから、この人権法チェルノブイリ法日本版の制定に力を注ぐ人たちというのは、自ら人権侵害を体験し、絶望の中でその事実と向き合い、「人権侵害はおかしい」と声をあげる勇気を持った人たち、昨夏、カナダ・モントリオールの世界社会フォーラムに参加したお母さん、米沢の「追い出し」訴訟の被告の自主避難者のような人たちだと思います。

絶望をくぐり抜けようとする彼らこそ私たちの希望です。

2017年12月1日金曜日

4年前の振り返り:過去は変えられない、けれども未来は変えられる。それがチェルノブイリ法日本版の制定だ。

                                                    柳原 敏夫
4年前、2013年4月24日、福島の子どもたちの集団避難を求めて2011年6月から取り組んできた「ふくしま集団疎開裁判」の仙台高裁判決(決定)で、原告はあと一歩のところで敗れました(Ourplanet解説)。
その「狐につままれた」「仙台高裁話法」の判決を聞いたとき、こう思った--過去は変えられない、けれども未来は変えられる。
それから4年経って、未来は変えられる。今それが、チェルノブイリ法日本版の制定することだと、確信するようになりました。チェルノブイリ法日本版の制定は子どもたちの命令です。そして、子どもたちには未来しかないのです。子どもたちの命令なら未来は必ず変えられるからです。

以下、その判決当時の感想です。

         ***************

過去は変えられない、けれども未来は変えられる。

未来を変える最大の力、それは私たち一人一人が夢、願いを持ち続けること。
人間の命と暮しと地球環境を守りたい。この夢は放射能汚染したからといって捨てることはできない。
この先たとえ何百年かかろうとも「福島」のこの夢の実現に向かって歩み出したい。
その歩みでまっさきに必要なのは――除染でも経済復興でもない。今すぐ、放射能に最も敏感な子どもたちを安全な場所に避難させること。

ところが、そんなことをしたら、ウクライナみたいに経済が悪化し、破綻すると言う人がいる(山下俊一福島県放射線健康リスク管理アドバイザーの2012年8月26日付け毎日新聞インタビュー)。
それはあべこべだ。ウクライナみたいに、5年も避難させなかったから、その間ずっと被ばくして健康被害が激増して、病人だらけになった結果、経済がどんどん悪化したのだ。
また、福島からの人口流出を食い止めることが最大の課題だ、いったん子どもたちを避難させたら戻ってこない、福島は崩壊すると信じている人がいる。
いったい子どもたちは人質なのですか。子どもたちはそんなに信頼されていないのですか。命がけで子どもたちを安全な場所に避難して命を救った事実をすぐ忘れてしまう忘恩な連中だと思われているのですか。

菅谷昭松本市長は放射線災害が従来の自然災害と全くちがうことを強調する。計り知れない大惨事であり、復興・再生にも従来の自然災害の常識が通用しないことを理解する必要があると言う。その通りだ。
同時に、放射線災害は天災ともちがう。人間の科学技術がもたらした人災・事故であり、交通事故ですら認められている加害者が被害者を救護する義務を負う。そのうち子どもと妊産婦は最優先に救護されるべき最も傷つきやすい存在、大切な存在で、彼らこそ本来、真っ先に救護されるべき犠牲者なのです。

未来は変えられる。私たち一人一人が正しい認識と正義に立った願いを持ち続け、つながって声を上げ続ける限り。

2017年11月29日水曜日

Q:私たちは何者なのか?A:私たちは産婆である。

2017年5月、三重県伊勢市のお母さんから発せられた「チェルノブイリ法日本版の条例制定を一緒にやりませんか」という呼びかけに賛同した市民が、いま、制定の取り組みに向けて準備を重ねてめています。その取り組みをする中で、ふと、
「こんな取り組みに参加する私たちって何者だろう?」
と思ったとき、ごく自然に、
「私たちは、産婆さんなんだ」
と思えてきました。

それは、
「私たちの目の前にいる市民ひとりひとりにとって産婆さんになろうとすること」
という意味です。

それは何のために?--それはこういうためにです。

私たちの目の前にいる市民ひとりひとりの心の中には「放射能災害による被ばくから命、健康、暮らしを守るために人々には本来、避難する権利があり、それを保障するチェルノブイリ法日本版は当然、制定されなければならない」という天命が宿っています。
ただし、それは心の中に宿っていても、必ずしも自覚されて自然に外に出てくるとは限りません。
だから、それを自覚し、外に取り出し、カタチにする必要があります。
その出産を手助けするのが産婆=私たちなんじゃないか、という意味です。

人々の中に眠っている天命が目を覚まし、出産できるようにそばで手助けすること、これが私たちのやれること、やることではないかと思いました。

人々の心の中にある天命が目覚め、天命を発見することはその人自身にしかできないことです。私たちは、それを難産にならずにできるだけスムーズに誕生することを手助けすこと、これが私たちの取り組みのエッセンスなんだと思いました。

これが分かって、私たちは力まず、力を抜いて、ぶれずにこの市民立法の取り組みをやっていけるのではないかという気になりました。

311後に最も必要なことは「被ばくから命、健康、暮らしを守る『避難の権利』を保障するチェルノブイリ法日本版」を市民の手で制定することです(2017年11月29日)

                                                   柳原 敏夫

 以下の文章は、2011年3月の福島原発事故発生後、最も必要なことは被ばくから子どもたち、住民の命、健康、暮らしを守る「避難の権利」を保障することで、その実現を目指して、ふくしま集団疎開裁判等の裁判に取り組んできたこと、今、そのために、チェルノブイリ法日本版の制定を市民の手で条例制定からスタートして、法律制定を実現する取り組みが重要だと考えていること、その経過をごく簡潔に記したものです。

1、原発事故発生から2016年3月まで
311福島原発事故の1ヶ月のち、文科省が「日本史上最悪のいじめ」である年20mSv引き上げ通知を出し、福島の子どもたちを放射能の被ばくの中に閉じ込めたのに対し、同年6月、国の責任で子どもたちの避難を求めるふくしま集団疎開裁判を申立てました(→動画)が、紆余曲折の末、2013年4月、仙台高裁が「福島の子どもは危ない。避難するしか手段はない」と事実認定しながら、「危険と思う子どもは自分で逃げればよい。被告郡山市には避難させる責任はない」と驚くべき司法判断を出したので、この決定は日本を除く全世界にいっせいに報じられました(NYタイムズ、ワシントンポスト、ABCニュース、ガーディアンRTニュース‥‥←それらの記事をまとめたパンフ)。

 正しい事実認定を行いながら、理解不可能な法的判断を下した仙台高裁決定をただすため、2014年8月に第二次のふくしま集団疎開裁判(子ども脱被ばく裁判)を提訴しましたが、今度は被告が国、福島県計7名にのぼり、長期戦を余儀なくされたため、チョムスキーからの指摘を受けて試行錯誤した末、できるかぎり早期の救済実現のため、上記裁判と同時並行で、2016年3月、市民立法=市民による法律制定の取り組みを始めました(以下、その告知文)。


◆放射能から命を守ること=避難することは人権です。 市民のネットワークで作る人権法=チェルノブイリ法日本版制定の市民運動をスタート!

2、2016年3月から2017年11月まで
私たちはこの取り組みを、告知の直後に東京・福島で開催された、また、昨夏のカナダのモントリオールで開催された2つの世界社会フォーラムの場で訴えました。
東京・福島
 昨年暮れに、兵庫県宝塚市と三重県伊勢市で、チェルノブイリ法日本版の学習会を開催し、現地の市民の人たちと制定の必要性について意見交換をしました。

今年3月末、三重県伊勢市の市長に会い、チェルノブイリ法日本版の条例制定について説明しました。
今年5月、伊勢市の保養団体の代表のお母さんが、「チェルノブイリ法日本版の条例制定を一緒にやりませんか」という呼びかけ文を起草し、公表。この呼びかけに応じて、長野県松本市、栃木県塩谷町、カナダ・モントリオール、静岡県静岡市、千葉県野田市、北海道富良野市、愛知県日進市、滋賀県大津市、三重県度会郡玉城町、福島県福島市、和歌山県東牟婁郡串本町、静岡県富士宮市‥‥の市民の方たちから賛同と制定運動への参加の連絡をもらい、ネットワークを形成しています。

また、原発事故は国境なき人災であり、チェルノブイリ法日本版とチェルノブイリ法国際条約は原発事故から世界の人々の命、健康、暮らしを守る両輪の輪です。チェルノブイリ法日本版制定の市民運動は世界市民運動との連携が不可欠です。そこで、伊勢市のお母さんの呼びかけ文は英語フランス語韓国語に翻訳され、告知されました。

今年10月、チェルノブイリ法日本版条例のモデル案とその解説がひとまず出来上がり、この条例モデル案を元に、これから本格的に、この法律制定に関心を持つ全国各地の市民と学習会、意見交換の場を持とうと準備に取りかかっています。
 
3、日本の市民運動が直面した2つの亀裂とその克服の重要性
311後の私個人の最大のショックは、2011年4月19日、文科省から「日本史上最悪のいじめ」である年20mSv通知が出されたことそのものよりも、そのあと、にも関わらず、それが通用したことです。一部の人が異議申立の声をあげたとはいえ、日本市民はこれを容認してしまった。それは、直接民主主義の源泉となっている日本の市民運動が年20mSv通知の残虐さ(放射能内部被ばくの危険性)に対する認識・注視が欠如していたという欠陥を示すものでした。
他方で、マイノリティとはいえ、放射能内部被ばくの危険性に対する認識・注視を保持していた市民の人たちは、相互扶助をしながら、避難、保養等の「脱被ばく」のアクションに取り組んできましたが、民主主義の体験や洞察が少ないため、どうしたら国に避難の権利を保障させることができるのか、旧来の議会制民主主義(お任せ民主主義)しか知らないため、直接民主主義をどのように行使したら実現可能なのか、そのビジョンを持てないという欠陥を持っていました。
日本の市民運動は、一方で直接民主主義に敏感な人たちは放射能の内部被ばくに鈍感であり、他方で放射能の内部被ばくに敏感な人たちは直接民主主義に鈍感という2つの両極に分断されていました。これが福島原発事故後の日本の市民運動が直面した深刻な亀裂だと痛感していました。けれど、同様の事態はチェルノブイリ事故当時も起きたのです。元NHKディレクターの馬場朝子さんはこう語っています。

私(馬場)がウクライナを取材で訪れるのは3度目である。前の2回は「ソビエト時代」のウクライナで、ソビエト崩壊目前の揺らぐ社会主義体制を取材するものだった。 ‥‥
(事故から26年後の)いま思えば、この時チェルノブイリの事故の影響が人々の間に、何も知らされないまま、じわじわと広がっていたのだ。 ‥‥
事故後3年間は、チェルノブイリ事故の情報はひた隠しにされていた。‥‥それよりも、目の前で起きている世界を2分してきた社会主義のリーダー、ソ連ががらがらと音を立てて崩壊していくさまに心を奪われていた。
あの時、チェルノブイリの事故にもっと注意を向けるべきだった。今回取材をする中で痛感した。》(「低線量汚染地域からの報告チェルノブイリ 26年後の健康被害」44~46頁)

 だから、条例からスタートしてチェルノブイリ法日本版を制定しようという市民運動の提案は、この2つの亀裂の統合をめざすものでした。つまり、直接民主主義に敏感な人たちに対しては、放射能の内部被ばくの危険性を知り、被ばくから避難する権利の保障の重要性、すなわちチェルノブイリ法日本版の制定の重要性を確信してほしい。他方、放射能の内部被ばくに敏感な人たちに対しては、機能不全の議会制民主主義(お任せ民主主義)に一喜一憂するのではなく、直接民主主義の可能性に目を向け、直接民主主義の取り組みに自信をもって大胆に挑戦して欲しい。そう願っています。
しかも、直接民主主義の挑戦は私たちが初めてではありません。私たちの前には、少なくとも次の4つのモデルが既に存在しているからです。とはいえ、どのモデルも1つだけで私たちのプロジェクトにそのまま適用はできませんが、これらのモデルを組み合われば、私たちのプロジェクトに適用可能となります。
 ①.市民立法・情報公開法の制定の歴史
 ②.市民条約・対人地雷禁止条約の制定の歴史
 ③.1954年、杉並で始まった水爆禁止署名運動の歴史
 ④.1991年、旧ソ連で成立したチェルノブイリ法制定の歴史


私たちは、心と頭を絞って、本質的には何一つ片付いていない福島原発事故を世界標準のコモンセンスで再定義して、心と口と手と足を使って、私たちの望みに向かって歩んで行きたいと思っています。
                                    以 上
                                     
            

2017年11月27日月曜日

チェルノブイリ法日本版の条例制定を一緒にやりませんか(2017.5)

以下は、福島からの保養を熱心に取り組んでおられる伊勢市のお母さんが、2017年5月に、日本と世界の人たちに向けて、チェルノブイリ法日本版の制定の取り組みを呼びかけた文章です。
原文は-->こちら
             **************

              チェルノブイリ法日本版の条例制定を一緒にやりませんか                                                 上野正美(ふくしまいせしまの会  代表)

私たちは福島原発事故後、非営利で保養や野菜支援、三重県への避難者・移住者の支援などを行なってきました。運営については会発足以来、みなさまからのご寄付や助成金で行って来ましたが、6年が経ち、民間にできることは限られたものだと感じています。

 しかし原発からまき散らされた放射性物質から日々発射される放射線の脅威を考えたとき、これらの取組みはまだまだ必要なものです。では、前例のない過酷事故に対して私たちはどうしたらよいのでしょうか。正直、途方に暮れます。しかし、幸い私たちには前例から学ぶべきお手本が2つあります。

 1つは放射能災害に対して命と健康と暮らしを保障したチェルノブイリ法です。これは、放射能災害に見舞われた人たちがひとしく守られるべき、放射能災害に関する世界最初の人類普遍の人権宣言です。これを参考に、日本でもそれに添うような法を作るべきだと強く感じています。

 もう1つは、「情報公開」の法律を日本各地の市民の手で制定した経験です。日本各地の自治体で地元市民と議員と首長が協力して情報公開の条例を制定し、その条例制定の積み重ねの中から1999年に情報公開法が制定されました。この経験を参考に、チェルノブイリ法日本版を条例制定からスタートすべきだと強く感じています。放射能災害から命と健康と暮らしを保障するチェルノブイリ法日本版の条例をあなたの住む自治体で市民の手で制定していきませんか。どうか、以下の文をご一読いただき、この条例制定の取組みに賛同し、そして、共に参加いただけますよう心からお願いいたします。

 
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チェルノブイリ原発事故から5年後、旧ソ連でいわゆるチェルノブイリ法が制定され、ウクライナ、ロシア、ベラルーシに引き継がれました。これら各国政府はチェルノブイリ法に則って、原発事故により放射能汚染された住民に避難の権利を保障し、また強制避難地域の住民の生活補償にあたってきました。3ヵ国ともに経済状況が良好とは言えないため、補償が法律通り実施できない状況ですが、少なくともチェルノブイリ法は原発事故の責任主体が国家であることを明記し、年間被曝量が1ミリシーベルトを超える地域に住むすべての住民に無条件で避難の権利を保障する画期的なものでした。

一方、福島では事故前の1ミリシーベルトの安全基準は事故後に20ミリシーベルトに引き上げられ、それが現在まで安全基準となり、帰還基準とされています。健康被害に対する救済についても、県民健康調査でこれまでに見つかった甲状腺がんは放射線が原因とは考えにくいとの理由から抜本的な対策が取られないままです。チェルノブイリ法が年間1ミリを基準として、原発事故で健康被害の可能性があればすべて救済しているのとは対照的です。実は旧ソ連でもチェルノブイリ原発事故直後、住民の許容被ばく線量が百倍に引き上げられ、チェルノブイリ法制定時にも100ミリシーベルトで問題ないとする見解もありました。しかし、事故処理にあたった労働者などの声に押され国際基準の1ミリになったものです。悲痛な原発事故を体験した日本でも、命こそ宝という原点に立って、良識ある市民がチェルノブイリ法日本版制定について声を上げ、その実現に向けて行動を起こすことが必要だと思います。

この取り組みに賛同し、参加してみたいと思う方は、私たちとつながり、一緒に条例のモデル案や条例制定の手順などを相談しながら取り組みませんか。         
 
                                               2017

この呼びかけに賛同し、条例制定の取り組みにご参加いただける方は、お名前、ご連絡先(アドレス)、ご住所を記入の上、以下までご連絡をお願いします。

連絡先:Email: ueno_masami_1108*yahoo.co.jp(上野正美)
          noam*m6.dion.ne.jp       (柳原敏夫) 
                       (*を@に置き換えて下さい)
なお、この呼びかけには以下の方が賛同し、条例制定の取り組みへの参加を表明しています。


安藤雅樹(弁護士 「まつもと子ども留学基金」監事)    
岩間綾子(「とちの実保養応援団」代表)    

大槻とも恵(社会学博士・カナダ・モントリオール市在住) 
小笠原学(支援交流『虹っ子』)
岡田俊子(脱被ばく実現ネット)       
チョ・ジウン(韓国ソウル市出身・デューク大学留学生)  
馬場利子(静岡放射能汚染測定室)              
三ッ橋トキ子(放射能汚染から子どもたちを守る会)    
柳原敏夫(ふくしま集団疎開裁判・元弁護団長)




2017年11月24日金曜日

Un appel à travailler ensemble pour l'implantation de la « Loi de Tchernobyl » au Japon

Translated by Monica Emond, PhD Candidate, University of Ottawa, Canada


Un appel à travailler ensemble pour l'implantation de la
« Loi de Tchernobyl » au Japon
Par Masami Ueno
(Directeur de l'association Fukushima-Iseshima)


L'association a but non lucratif Fukushima-Iseshima est située dans la préfecture japonaise de Mie. Nous avons aidé à l'installation des évacués, volontaires ou forcés, de Fukushima dans la préfecture de Mie et offert depuis mars 2011 des programmes de récupération, à Mie, aux enfants de Fukushima. Nous fournissons également des légumes frais aux familles de Fukushima.

C'est par le biais de dons et de subventions généreuses que nous avons pu mettre en oeuvre ces activités. Après six ans, nous réalisons cependant qu'une organisation comme la nôtre possède des capacités limitées. Nos activités demeurent par ailleurs nécessaires car la radiation provoquée par la catastrophe nucléaire de Fukushima affecte encore aujourd'hui le quotidien des personnes touchées. La question qui se pose alors est comment composer avec les effets d'un désastre d'une envergure sans précédent. En toute honnêteté, nous nous trouvons aujourd'hui perdus. Il y a néanmoins deux précédents que nous devrions suivre.

Le premier est la promulgation de la Loi de Tchernobyl établie par l'ancienne Union Soviétique. Elle visait la protection de la vie et de la santé des personnes affectées par la catastrophe nucléaire de Tchernobyl en 1986. La Loi de Tchernobyl est également la première loi au monde à mettre en avant le droit humain universel à la protection de la vie des personnes touchées par le désastre de la radiation. Nous croyons que le Japon doit adopter une loi équivalente à la Loi de Tchernobyl.

Le second précédent porte sur l'établissement de la Loi sur la liberté de l'information adoptée par le Japon en 1999. Cette loi fut la résultante de l'effort concerté des citoyens à travers tout le territoire japonais. Ceux-ci réclamaient la mise en application de cette Loi auprès de leurs instances locales de gouvernement ainsi qu'auprès des membres des conseils municipaux. C'est ce mouvement citoyen qui a mené à l'adoption ultérieure de cette Loi au niveau national.

Nous aimerions travailler avec vous à l'adoption d'une Loi de Tchernobyl au Japon afin de protéger notre vie et notre santé contre les dangers de la radiation.  

Nous vous enjoignons à prendre un moment pour lire ce qui suit et nous espérons que vous supporterez notre idée et vous joindrez à nous afin d'établir une Loi de Tchernobyl pour le Japon.

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Cinq ans après le désastre nucléaire de Tchernobyl, l'ancienne Union Soviétique a adopté ce que l'on appelle la Loi de Tchernobyl, une initiative emboîtée par les gouvernements de l'Ukraine, de la Russie et du Belarus après le démantèlement de l'URSS. Tout ces gouvernements ont garantie le droit à l'évacuation et la sécurité sociale aux résidants vivant dans des régions contaminées par la radiation. Or, ne jouissant pas forcément d'une situation économique favorable, ces trois pays ne sont pas en mesure de remplir les conditions de prestations prévues par la Loi. Cela n'empêche pas cependant de reconnaître la portée historique de la Loi de Tchernobyl qui attribue la responsabilité première des désastres nucléaires aux gouvernements et qui établie le droit inconditionnel à l'évacuation des personnes résidant dans des régions où l'exposition à la radiation dépasse 1 mSv par année.

Après l'accident nucléaire de Fukushima, le gouvernement japonais a pour sa part haussé la norme concernant la dose limite d'exposition à la radiation de 1 mSv à 20 mSv par année, une norme qu'il maintient toujours en vigueur. Il semble que cette norme de sécurité fait office de critère ayant guidé le gouvernement dans sa décision récente de lever l'ordre d'évacuation.

Plus encore, le Comité d'enquête sur la gestion de la santé à Fukushima a écarté la possibilité de l'existence d'une causalité entre l'augmentation des cas de cancers de la thyroïde chez les enfants de Fukushima et la radiation et n'a pris aucune mesure sérieuse concernant les problèmes sanitaires des habitants de Fukushima.

La politique japonaise de gestion des risques associés à la radiation diffère considérablement des trois États de l'ex-URSS qui ont fixé la dose limite d'exposition du public à la radiation à 1 mSv par année et garantissent la sécurité sociale aux personnes ayant été diagnostiquées comme victimes potentielles des conséquences radiologiques de l'accident nucléaire de Tchernobyl.

Immédiatement après cet accident, le gouvernement de l'ex-Union Soviétique a haussé la norme relative à l'exposition du public à la radiation de 1 mSv à 100 mSv par année. Dans la période précédent l'adoption de la Loi de Tchernobyl, certains experts ont même insisté pour faire valoir le caractère « sécuritaire » de la norme de 100 mSv par année. Or, à la suite de l'opposition virulente des travailleurs de la centrale nucléaire qui ont eut à faire face à la catastrophe, celle-ci fut ramenée à 1 mSv par année, ce qui correspond à la norme internationale.

Nous aussi, les citoyens du Japon, avons vécu une catastrophe nucléaire nous rappelant la dignité de la vie.

Il nous faut dès à présent prendre la parole et agir afin d'établir une Loi de Tchernobyl pour le Japon.


Mai 2017

Prière de nous contacter si vous désirez travailler à nos côtés à l'élaboration d'un plan et la formulation de procédures afin d'appliquer la loi au niveau municipal. Vous trouverez les contacts pour nous rejoindre ci-dessous:

Email: ueno_masami_1108@yahoo.co.jpMasami Ueno

noam@m6.dion.ne.jpToshio Yanagihara

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チェルノブイリ法日本版制定の市民運動のモデルの1つ:60年前、杉並で始まった水爆禁止署名運動

チェルノブイリ法日本版制定の市民運動のモデルの1つは、60年前、1954年、杉並で始まった水爆禁止署名運動だと思います。

原水禁運動は日本史上最大の市民運動です。その発端となったのが杉並で始まった水爆禁止署名運動です。出典「杉並で始まった原水爆禁止署名運動」

■ 瞬く間に集まった署名-その数は1ヶ月で26万。
             公民館講座室風景(中央 安井郁氏)

運動の中心となった安井郁館長は、公民館で学びはじめた主婦たちの読書会「杉の子会」や婦人団体協議会 (安井館長の呼びかけにより杉並の婦人団体が結集した組織)参加の42団体等をひろく横につなぎながら、この「杉並協議会」を核にして、原水禁署名運動に 取り組んでいきました。婦人たちは、お互いに区域の担当を決め、署名簿をかかえて、戸口から戸口へと署名を求めて歩いたと言います。納得して署名してもらうという丁寧さだったにもかわらず、一人で何千という署名を集めた人たちもいました。地域にねざす民衆運動(市民運動)の新しいタイプとして注目されるものでした。
 
195413日から始まった署名運動は、620日に259,508名に、624日には265,124名に達するという数字が記録されました。当時の杉並区人口は約39万、その7割に近い署名は驚くべき数です。二重署名を自戒していたし、他区の数字が若干含まれているとしても、地域からの平和運動に杉並区の住民が一丸となって取り組んできたことを数字は示しています。
             館長室で署名簿を整理する婦人たち

 原水禁運動の爆発的発展--ビキニ事件と放射能の脅威--
 日本の原水爆禁止運動は、1954年3月1日、南太平洋ビキニ環礁で行なわれたアメリカの水爆実験を直接の契機としてまきおこりました。20メガトンの水爆の実験によって発生した「死の灰」は、100キロメートル離れた公海上で操業していた静岡県・焼津の漁船「第五福竜丸」にふりかかり、これを浴びた23名の乗組員は全員、火傷・下痢・目まい・吐き気などの急性放射線症にかかり、そのうちの一人、久保山愛吉さんは同年9月23日、ついに手当の甲斐なく亡くなりました。「死の灰」の恐怖はそればかりでない。「第五福竜丸」の獲ってきたマグロから強い放射能が検出されたため、同海域で獲れた他の漁船の魚類も検査した結果、内蔵に放射能をもつものが発見されました。
 焼津、三崎港、東京や大阪の漁市場ではマグロの廃棄処分がつづけられ、魚屋や寿司屋は客が減って“マグロ恐慌状態”が生じました。東京の中央卸売市場はコレラの流行以来はじめてセリを中止するに至りました。
また、気流にのった「死の灰」は雨にまじって日本全土に注がれ、イチゴ、野菜、茶、ミルクの中まで放射能が発見されはじめました。こうしていまやアメリカの水爆実験は遠い彼方の問題ではく、身近な日常生活に直結していることを明らかにし、日本国民全体に大きなショックをあたえたのです。
 そしてこのことが人びとにあらためて「ヒロシマ」「ナガサキ」の原爆被爆の惨禍を思いおこさせる契機となった。アメリカの占領下にあって秘められていた国民一人一人の「戦争はいやだ」「ピカドンはゴメンだ」という厭戦・反原爆感情を一挙に爆発させたのです。

           水爆禁止署名運動杉並協議会ニュース(1954年年6月27日発行)

 「原水爆禁止」の署名運動は、全国各地で一斉に開始され、運動は火のように全国津々浦々の町、村、職場に燃え広がり、あらゆる市町村会議で「核実験反対」「核兵器禁止」が決議されました。
 そして各地域や職場で自然発生的に始められた署名を全国的に集約するセンターとして「原水爆禁止署名運動全国協議会」が結成され、12月には署名も2000万名を突破しました。

■ 原水禁世界大会の開催
 1955年1月、「署名運動全国協議会」の全国大会は、「8月6日に広島で世界大会を開く」ことを決め、5月にはこのための「日本準備会」が結成された。そして広島大会の目的と性格を 
(1)過去1年間の署名運動を総括し、世界の運動と交流して今後の方向を明らかにする。
(2)あらゆる党派と思想的イデオロギー的立場や社会体制の相違をこえて、原水爆禁止の一点で結集する人類の普遍的集会、
と規定しました。
 そして3000万署名と、1000万円募金を土台に、全国各地域、職場の代表五千名と、社会体制を異にする多くの国々からの代表が参加して、第1回原水禁世界大会が、8月6日広島で開催されました。B・ラッセル、シュバイツアー、J・P・サルトルなど著名な人々も全面的にこの大会を支持し、参加した被爆者が「生きていてよかった」と涙をながす光景さえみられました。
 第1回世界大会終了後、「日本準備会」と「署名運動全国協議会」が発展的に統合して生まれたのが「原水爆禁止日本協議会(日本原水協)」です。

■ 原爆反対の声は政府を動かし、世界に響く         
署名簿巻末「杉並アピール」と呼ばれる宣言の記載箇所 

 3000万人をこえる「原水爆実験禁止署名」は、これまでの日本の運動では最大の運動でした。これに参加した団体は、労組や民主団体だけではなく、むしろ保守的傾向の強い地域婦人会、青年団も含まれており、地方自治体もぞくぞく反対の決議を行ない、原水禁運動に協力した。また学術団体や社会団体(日赤など)や水産業界もこの運動を支持したのでした。
 これらの世論の高まりは遂に日本政府をも動かすに至りました。
 かつて吉田内閣は「日米安保条約のたて前上、アメリカの核実験には協力する」といっていたのが、鳩山首相は「原爆禁止に協力する」と言明するにいたりました。
 1956年2月には、衆参両院で「原水爆実験禁止決議」が採択され、同年10月には「原水爆禁止全国市会議長会議」が開催され、自治体ぐるみの運動が各地に広がった。
 1955年1月には、ウィーンで世界平和評議会の拡大理事会が開かれましたが、これには日本の原水禁運動の代表安井郁氏が招かれ、「原子戦争準備反対の訴え」(ウィーン・アピール)が採択されました。いまや核兵器に反対する世界的な連帯ができはじめたのです。